読書ノート 「神秘の夜の旅」 若松英輔
越知保夫という人の評伝ですね。若松英輔は「井筒俊彦 叡智の哲学」のあと、これを記しました。第二作目の著作だそうです。
慶應義塾大学出版会のホームページの「井筒俊彦入門」ページでは、越知保夫についてこのようにまとめられています。
もしくはこのように。
多分どちらの文章も若松英輔ですな。
若松英輔がこの著作で言いたかったことは、先の慶應義塾大学出版会・井筒俊彦入門の文章の後段でしょう。
井筒俊彦はおそらく越知保夫を知らない。越知保夫もまた、哲学者井筒俊彦の著述を知らない。しかし、二人は一冊の本を起点に深く交わることになる。
翻訳者としての井筒俊彦は一稿をもって論じていい命題である。『コーラン』『ルーミー語録』『存在認識への道』といったイスラームの聖典、古典の翻訳者であることは周知の事実だが、彼にマルティン・ダーシーの『愛のロゴスとパトス』の翻訳(三邊文子との共訳)があることはあまり論じられていない。翻訳が刊行されたのは1957(昭和32)年3月、同年の12月に『コーラン』が刊行された。井筒俊彦の最初の翻訳が、イスラームに関連するものでなく、カトリック司祭による愛をめぐる論考だったことは注目されていい。
ダーシーは、カトリックのイエズス会士であり、イギリス管区長の重責を担っていた。また、彼は20世紀中期イギリスを代表する哲学者でもあった。1953年、ダーシーは知的交流協会の招きで日本を訪れる。このとき、井筒俊彦はダーシーと親交を深め、自らその著作の訳者になることを申し出たのだった。
『愛のロゴスとパトス』は世界でも広く読まれ、日本でも良き読者を獲得した。しかし、井上洋治やヨゼフ・ロゲンドルフといったカトリック司祭は別に、ダーシーの著作を論じた者はほとんどいない。越知保夫は50枚を超える論考「『あれかこれか』と『あれもこれも』――ダーシーの『愛のロゴスとパトス』を読む」を書いた。この作品は題名からが想起されるように、書評の範疇に属するものではない。ダーシーの思想を基軸に、日本人が、キリスト教とその異端における愛を実存的に論じた最初の批評なのである。今もそれを凌駕する論考を私は知らない。
先に名前を挙げた「好色と花」もまた、越知保夫による「愛」論である。彼がいう「好色」はエロスであるとともに、アガペに変貌する種子である。そして、「花」が象徴するのは世界に存在する万物である。越知保夫は、愛は常に、存在と存在者とともに論じなくてはならないという。世界が在ることと人間が生きることは不可分の出来事だというのである。
越知保夫は「存在」と「存在者」を弁別できる稀有な批評家だった。井筒俊彦が愛し、また深く論じた神秘哲学者イブン・アラビーは、超越的絶対者を「神」とはいわずあえて「存在」と呼んだ。「存在」は「存在者」を、自己展開的に分節する。「存在」は自らが母胎となり、絶えることなく創造を続ける。そこから生まれ出たものが「存在者」である。
だから、花が存在するといってはならない。「存在」が「花」するのであると井筒俊彦はいう。井筒俊彦の存在論は、そのまま越知保夫のそれに呼応する。越知保夫の「存在」観にカトリシズムあるいは中世哲学が影響していることはもちろんだが、それに勝るとも劣らず、彼の世界観を決定しているのは小林秀雄である。「美しい『花』がある。『花』の美しさという様なものはない。」(「当麻」)という小林秀雄の一節もまた、イブン・アラビー、そして井筒俊彦の存在論に強く共鳴する。「在る」ということは、常に我々を驚かすものである。
「『あれかこれか』と『あれもこれも』」を含む越知保夫の全ての作品に、彼について書かれた文献も併録した『小林秀雄――越知保夫全作品』(慶應義塾出版会)が刊行される。そこには彼のクローデル論がある。井筒俊彦もまた、二つのクローデル論を書いた。越知保夫はそこで真実の実在である「霊」に触れ、井筒俊彦は永遠を論じた。
哲学者・池田昌子が小林秀雄の「魂」観に触れるくだりは素晴らしい。「魂」の正当なる見方だと言ってもいいだろう。
池田も越知も、「魂」の一語で、精神の彼方に存在する何かを表現しようとした。また池田は、人間とは「肉体と精神と魂」からなる、とも述べている。
彼女にとって、「魂」は、いわゆる心霊とはまったく関係がない。彼女は、魂を浮遊する何かだとは見なさない。さらにいえば「魂」は肉体の生死によって生滅を左右されるとは思っていない。「魂」とは、人間にあって、不滅なる実在の呼称である。「死」は人間の根源的な存在に触れ得ない。そう池田は考えている。さらに、池田は「神秘について考えるために、人は神秘主義者である必要はない。ただ素直な心であればいい」(「神秘と神秘主義」)と書く。越知保夫は、この言葉を是としただろう。
越知が「信じる」と記すところを、池田は「考える」と書く。池田にとって「哲学者」とは考える人の謂だが、彼女は、自分のためには考えない。それは、画家の絵、音楽家の演奏、詩人の詩作のように、未知の他者に向かって開かれていく営為である。
それは越知保夫が言う「労働」にほかならない。その営みは、労働する者よりもむしろ労働の成果を受け取るものを照らすのである。
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