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何を手に入れるかではなく、何を捨てるか。ーソール・ライターに出会うー

前回の記事で写真とカメラと自分の関係を再考して、写真と向き合うことに決めた。

SNSで他の人が撮った写真を眺めるが好きでよくInstagramなどをチェックしていたのだが、過去の「名作」と言われるものに触れる機会がなかった。

もちろん名作だって、SNSの“映え写真”だって、つまるところ他人の評価であるということは変わりない。
しかし名作には名作たる所以がある。「なぜ後世まで語り継がれる写真なのか」を考えることには意義があるはず。

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ということで、写真家の界隈ではあまりにも有名な写真家・ソール・ライターの写真に触れることにした。

※本記事に掲載している写真は全て僕が撮影したものです。ソール・ライターの写真ではないので悪しからず。

ソール・ライター

あまりにも有名な写真家なので、詳しい略歴は他の記事などに譲るとして、一文で端的にあった紹介文を掲載しておく。

“カラー写真のパイオニア”として、独自のアングルでニューヨークの日常を撮りつづけ、近年その魅力が再評価された写真家ソール・ライター。
(引用 :ソール・ライターの展示会ホームページより)

説明的な文章はさておき、まずは彼が生涯をかけて撮影した写真を見てほしい。

この本はソール・ライターの初期作品から、白黒写真・カラー写真問わず約200点の写真が掲載された写真集だ。

ページを開いた瞬間、その写真の美しさに目を奪われた。

そこにあるのは数々の日常を切り取った写真。
詳細も、説明も、理由も、何も書かれていない。
にもかかわらず、写真が見せたい、いや魅せたいものだけがはっきりと浮かび上がってくる。

現代の"SNS映え"を意識した写真とは全く違う。

ソールの写真は鮮やかな色味も、綿密な画質も、キレのあるシャープさもない。低彩度でピントは甘く、ノイズも多い。しかし、写真には写らない「行間」が、ソールの写真からは滲み出ているのだ。

自身が美しいと感じるもの、面白いと感じるものは何か、それをどう写すのがいいかに極限まで向き合った写真ー

一見すると「ふらっと撮った写真」に見えるが、裏には綿密な計算と、計り知れない美意識が内在している。

写真の美しさに見惚れるうちに、ふと世界的に有名なデザイナーの佐藤可士和さんが言った言葉が脳裏をよぎる。

「こんなの俺でもできる」は僕にとっては褒め言葉。

写真とデザインという領域の違いはあるにせよ、この言葉は通じるのかもしれない。

美しく真理な言葉

本書では、ソールの写真だけでなく、言葉も残してある。
(言葉の掲載の仕方もまた素敵なのだから素晴らしい。)

いくつか自分の心に残っているものを記しておく。

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私が写真を撮るのは自宅の周辺だ。神秘的なことは馴染み深い場所で起きると思っている。なにも、世界の裏側まで行く必要はないんだ。
写真を見る人への写真家からの贈り物は、日常で見逃されている美を時々提示することだ。

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重要なのは、どこである、何である、ではなく、どのようにそれを見るかということだ。
肝心なのは何を手に入れるかじゃなくて何を捨てるかなんだ。

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写真を撮るために、海外旅行に行く、有名なスポットに足を運ぶ、素晴らしい機材を揃える、技術を覚える。もちろんその行為も写真の楽しみであり、全く否定する気はない。僕もそうした楽しみをカメラに感じてきた。

しかし、写真の本質は、「何か」を探すのではなく、すでにそこにあるものを「どのように」切り取るかであるということ。そうソール・ライターは伝えてくれた。

この視点は僕にとって全くもって新しいものであり、ソールの写真や言葉から汲み取った瞬間、真理という鈍器で殴られた気さえした。

いい写真を撮るには、日常を見直すこと。切り取り方に向き合うこと。

そう教えてくれた写真集だった。

素晴らしい写真たち

写真には当然のことながら著作権が存在するので、ソール・ライターの本記事には登場させていない。

しかし、ぜひ一度ソール・ライターの写真を見てほしい。ネットで検索すれば彼の作品がたくさんヒットする。

もっというと、それを「写真」というリアルな形で触れてみてほしい。

僕を含めた多くの人は、スマホやPCなどの画面越しで写真を享受している。スマホの画面は無数の写真を写してくれるし、繊細だし、軽い。お金もかからず多くの写真を見られる。

しかし、「写真」という実体には、デジタルにはない質感があり、描画があり、行間があり、重さがある。

デジタルに浸った現代人の我々だからこそ、紙で写真を味わう瞬間にたいそう意義があるのだ。


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