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趣味はカメラ、じゃなくて写真と言いたい。

大学時代にカメラを買ってからというもの、旅行にも日常にもカメラという道具は欠かせなくなった。

買った当時は、友達を、恋人を、風景を、時間を、そしてそれ以外の有象無象を残すことが目的だった。
しかし、自分でも気づかないある瞬間から、写真を撮る行為ではなく、写真を撮る機材や他人の興味を引く行為に興味が移ってしまった。

いつからか忘れていまったが、手段と目的を取り違えてからというもの、写真そのものに向き合う時間が減っていた。そしてそのこと自体につい最近まで気がつかなかった。

きっかけは1冊の本。

カメラを所有している人なら聞いたことがあるかもしれないこの本は、僕とカメラと写真の関係を見直す足掛かりになった。

高い機材で撮れば良い写真なのか

「解像度が…」「 F値が…」「暗所性能が…」

カメラをやっている人は、カメラ本体やレンズになどの機材にとにかく悩む。ネットショップをうろつく。商品レビューの動画を見る。僕だってそう。

そしてこう思う。
「この機材を使えば、こんないい写真が僕にも撮れるんじゃないか」と。

しかし、高価な機材が良い写真を生むというのは単なる幻想に過ぎない。この考えは過ちなのだ。

もちろん、高価な機材にはそれなりの良さがある。安いレンズに比べれば高価なレンズの方が繊細に写すだろうし、安いボディに比べれば高価なボディは機能が豊富だろう。
 

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しかし、どれだけ高価な機材を持ったとしても、何を写すか、どう写すかを決めるのはカメラではなく自分という事実は変わらない。カメラはあくまでも道具でしかなく、無論写真は自分が創り出すものなのだ。カメラではない。

とはいえ、振り返ってみると、道具が目的を果たしてくれると勘違いしてしまうことはこれまでも往々にしてあった。

例えば、ギター。弾いているのは自分なのに、「いいギターがあれば、プロミュージシャンの使うギターがあればいい演奏ができる」という勘違い。

例えば、シャーペン。手を動かすのは自分なのに、「使いやすいペンなら、最新のギミックが取り入れられたペンなら、勉強が捗る」という勘違い。

あげ出すとキリがない。
キリがないことを繰り返しているのだ。

話を戻すと、良い写真と高価な機材に何ら関わりはなく、幻想を作っていた − そしてそれを叶えることができなかった − のは僕自身だった。

良い写真、良い人

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本書でも取り扱われているし、この記事でも散々出てきた「良い写真」。これもひとえに定義ができない、非常に難しい命題。

良し悪しというのは、それを見る人の感性に大きく左右される。写真に限ったことではなく、音楽も、文章も、人も。

頭では理解していても、どうしてもSNSの「いいね」が多い写真の方が良い写真に見えるし、フォロワーが多い方が良い写真を撮る人のように目に映る。

この勘違いも機材と同じで、写真そのものから目を背けてしまったせいである。

自分にとって「良い写真」とは何か。
僕にとって、それはその時の空気や気持ちが思い出せるもの。
なぜなら僕が最初に写真に求めたものがそれだったから。シンプルだ。

時を残す写真を楽しむ

カメラにのめり込めばのめり込むほど、「良い機材とは」「いいねがもらえる写真とは」など、写真の周りにあるそれ以外に気を取られていた。

でも今改めて自分が本当に感動する写真とは何かを考えよう。
時を残す写真はどうやって撮れば良いのか。僕は何に感動をしたのか。

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それを考えたのち、世界的に有名な写真家が世界をどう切り取ったか学んでみたい。
興味があるのは、アンリ・カルティエ=ブレッソン、ソール・ライター、ロバート・フランク。

たくさんの写真を見て、たくさんシャッターを押して、自分だけの写真と向き合う時間を。

そして、カメラではなく写真そのものにのめり込みたい。
趣味はカメラ、じゃなくて写真なのだ。

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Instagramやってますのでぜひお時間ある時に覗いてください。

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