劇的でない、話

 またまたお久しぶりです。片山順一です。今回は、ちょっと重たい話を。

 あまりまとまっていませんが、誰かに読んでもらうというより、私自身のためです。


 私は、とんでもない間違いを犯した気分になります。

 2021年、五月の末だったか。二十代の頃、一緒にバンドをやっていた方が亡くなりました。

 彼は、多分音楽に命を賭けている人で、ほかにもたくさんバンドをやっており、インディーズ界隈では有名な人だったようです。

 そういう彼がどうして私と一緒にバンドをやってくれたのか、今でも分かりません。私の人格や、演奏を気に入ってくれたのか。直接聞くことはできなかったし、今となっては二度と聞くことができません。

 私は、当時も今も本当に頑固で自分勝手で、そんな自分でいいと思っています。

 今から思えば、みんなとバンドをやりながら、働いて普通に暮らす道もあったはずなのに。街を出ることを選びました。

 それも、小説を書いて暮らすんだなんて言いながら。

 二十代も半ばを過ぎつつある私の幼い決断を、彼は笑って見送ってくれました。

 私は、そんな彼に勇気づけられました。いつか認められて、自分の本を出版して、それで暮らせるようになったら、彼の暮らす街に戻ってみよう、なんて思いながら、ぼんやりと流されるままに暮らしていました。

 なんとなく、なんとなく、それでまた、音楽でもやれたらいいな、なんて、思っていました。

 さて、あれから十年以上。私は三十代の半ばを過ぎました。
 そして、私の本はまだ出ません。いや、もはや出るのかどうかすらも分かりません。

 先日、私は百五十万文字の小説を書き上げたことを自慢げに語りました。

 しかし、それでも、私は出版という機会をつかむことができなかったのです。

 私は自分に才能があると思っていました。いや、無くてもきちんと努力して多く書けばきっとできると思い込んでいました。

 親ともぶつかり、仕事でも苦しみ、先生の期待も裏切り。
 まあでも、なんとかやっていくつもりで。

 結局、今、この瞬間、私の本は存在しません。
 もちろん、彼がこときれるそのときにも存在しませんでした。
 そうです。私がそれなりに苦しみ、それなりに懸命に生きてきた結果が、私の本が今この時どこにも出版されていないという事実となっているのです。

 いま私の生活は苦しくありません。飢えて死ぬことはないという程度ですが。
 女性不信で婚活どころではないから、私が成功しないことによって食えなくなる家族もいません。

 だからまあ、勝手にすればいいか。

 いつか何とかなるかも知れないし、ならなくてもそんなもんだろう。
 適当に書いて一人で干からびて死ぬか。それで誰にも迷惑かけない。

 いつしかそんなことを考えていましたが、違うんですね。

 私は、あんなに大切だった彼に。
 私に、あんなによくしてくれた彼に。

 私の本を読んでもらえずに、死なせてしまったんですね。

 選考に落ちて心が苦しいとか、何となくやる気にならないとか、いいエロサイトを見つけたとかゲームが楽しいとか社会がムカつくとか、モテなくてキレそうとか。

 自分の勝手な心に逃げて、できたかも知れない作品を書き上げずに。

 だから、二度と取り返しがつかなくなったんです。

 たとえばもし今、この瞬間から気が狂ったように書きまくって、読みまくって、何かが変わって私の作品が認められて出版されるということがあっても。

 その奇跡のようなときが来ても、彼は居ないんです。冷たい墓石の下にしか。

 それが、私の人生です。三十六歳になってしまった、私の人生なんです。
 本当に、何をしていたんでしょうね。
 読んだり、書いたり、苦しんだり、自分の心を見つめたり。それなりに、自分の中では評価できることもあるけど。

 カウンセラーは言ってくれました。この私の苦しみは、親しい人を失ったときに共通のものだと。
 心理学上明らかな性質として、人は大切な人を失ったとき、自分のせいじゃないのか、もっと何かができたのではないかと自分を責めることがあるそうです。

 自分の本を見せられなかった、という私の苦しみ。それは、彼のために何かができたのではないかと、自分を責めているのではないかということでした。

 なんということでしょう。べつに、小説を書く人でなくても、なんでも、私と同じような苦しみがあるということです。

 だったら、それでいいんでしょうか。
 よくあることが、ただ起こっただけのことだと。誰だって、ただ生きているだけで、大切な人が先に亡くなることはあります。それが、私にも起こっただけのことだと。

 だから、何とかなる。地獄ほどに苦しまなくてもいい。それが普通なんだから。

 それとも。私は私の感情が人より大きくて優れていて強いと思いたいのに、みんなと同じ程度でしかないと嘆くべきでしょうか。

 どうすべきかでいえば、前者だと思った方がいいんでしょう。
 でも、なあ。自分は特別だと思いたいんです。

 うーん、でも、こっちは彼に怒られますね。
 絶対怒られると思います。やめます。

 というわけで、大切な友人に自分の本を見せられなかったという出来事は、多くの人にあるべきことが、私にも、ただあっただけだということです。

 だからまた、書きましょう。そして精一杯、生きるだけです。
 我ながら、なんとも分別じみた判断ですけど、まあいいでしょう。

 私は下戸ですけど、香典の返礼に彼のご両親が送ってくれたお酒は、一生かけてでも飲み干そうかなと思います。日本酒はお刺身に合うそうだから、ハマチでも買ってきましょうかね。

 ようやく、このnoteを書くことができました。ただ生きるというだけで、様々なことがあるものですね。

 『ただ生きる、生きてやる』か。
 クロマニョンズは偉大ですね。


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