見出し画像

報われたいという気持ち

私は、やり方より在り方を優先する、というより常に最優先で、今までやってきた。期間だけなら、フジさん(フジミドリさん)よりも長いかもしれない。彼もそうかもしれないけれど、私は天然そのもの記念物みたいなやつである。理屈などあって無いのと同じである。そこがフジさんとはおそらく違う。

忘れたわけではない。最初から分けていない感じのままなのである。

たとえば、英語。私はおそらく30000から50000程度の語彙認識力は身についている。だが、そのうち実際に使うのは2000程度ではなかろうか。50000程度馴染んできたから、2000程度がしっかり身についている。努力などしたという記憶はほぼほぼない。英和辞書はとっくの昔にぼろぼろ、英英辞典がすっかりお友だちである。

高校時代、図書館でひとりだけ仲間がいた。彼はずーっと聖書を読んでいた。日本語ではなかった。目が一度だけあったことがあって、彼は私に眩しいくらいの笑顔を見せてくれた。私はハッとした。彼は完全に救われている。そう私は感じ取っていた。

余談だが、高校の時は担当の英語の先生の授業の不安定さに、内心どきどきさせられ、心の中では毎回エールを送らせていただいていたりした。事実である。

みなさんにとって、難しいことがわたしには簡単だったりする。逆にみなさんにとって簡単なことが、わたしには難しかったりする。それがじんさんなのだ。

相手を前にすると、言葉使いが少々おかしい。いやだいぶだろか。丁寧すぎると、実生活では思われ続けているようだ。くだけた表現を使おうとすると、かえって疲れるので、少し使ったらすぐやめてしまう。私はキャラ設定などが苦手なのだ。ほぼほぼ常に素である。素粒子みたいなやつなのかもしれない。

わかりやすい例がギャンブル。

これは調う瞬間を捉えられれば、誰でも勝てる。

そんなことは多くの方もわかっておられるだろうが、実際にやろうとすると、できる方にほぼお逢いしたことなどはない。おそらく功名を焦られるからだろうとは思う。勿体無いことだ。

少し前にも触れたが、このnoteは人材の宝庫である。いつ有名になられてもおかしくない方々が結構潜んでおられる。そう感じている。

あとは、いつ花を開き実を結ぶかということだろうが、いかに人材として素晴らしい才能をお持ちでも、それはなかなか楽には実現しなさそうだ。私の皮膚感覚レベルから涌き出てくるものがそう教えてくれている。

自らのプライドが自らの足かせになっていることに、なかなか気づかないし気づけない。そんな方が今の時代にもやはり多いのだろうと思う。

わたしのような者が触媒としてそういった方々の浮上には必要なのだろうが、せっかちさんが多いのか、基本わたしのようなものの所にはご自身からはこられない。お前から来い!ということらしい。

まあ発掘が趣味みたいな私は、そんな方々を発掘するために、こちらから出向かせていただくことが基本多いのだが、それでもなにせ人数が多すぎる。

コメントでもしていただけたら記憶にとどまるので一番有り難いのだが、なにせ意識が高い方たちがやはり多く、人を無意識レベルで見下すというか別けてしまわれている。その時点で間違われるわけだから、あとは流れるままである。

タケノコが本来の姿で、タケノコとして自らを提供すべきなのに、自らの頭のよさ才能にすっかり酔ってしまわれているうちにすっかり竹になってしまわれている。そんな方が今の時代もやはり多いのだろう。無常を感じる。

ごく一部の方々には私の真意は既に伝わっているのかもしれないが、とにかく枠や言葉で捉えようとされる方々は、おそらく基本無理である。ワープなどは出来ないし、テレポーテーションなど拒否されることであろう。

自在こそ本質なのである。


まあ、じんさん。

また、空を見上げて、次の流れに備えればそれでいいのかも。

愉しんでればそれでいいのだ!

じんさ~ん。😊アイヨ~キョウモヨキヒダ🍀


ではでは








この記事が参加している募集

「記事の価値に対する対価」として評価していただけるのであれば、歓んで素直に受け取らせていただきます。また、個人的な応援のお気持ちからならば、そのお気持ちに深く感謝します。有り難うございます。