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「何もしたくない」って欲求、まじ何?

何もしたくない。
ここ数日毎日そう思っている。

土曜日の朝、起き上がって「今日は何もしたくない」と思った。
でも、イベントのチケットを予約していたから、結局都内のコミュニティスペースに行って半日以上過ごした。

日曜日の朝、目が覚めて「今日は何もしたくない」と思った。
でも、友達と遊ぶ約束をしていたから、結局昼も夜も外食して、その間ずっとおしゃべりしていた。

月曜日の朝、目を開けるのさえ億劫で「今日は何もしたくない」と思った。
この日は前の2日間に比べればかなりゆっくり過ごした。
でも、副業の提出物の修正依頼に対応したし、昼夜ご飯の準備をしたし、夕方には洗濯も取り込んで、夕食後にお風呂掃除もした。

全然大したことはしていないが、それでも何かしら活動はしている。
まじのまじで何もしないことってできない

そもそも、生きるということ自体がめちゃくちゃ活動だ。
息を吸って吐く、瞬きをする、食事をする、排せつもする…
私は何もしたくないのに、生きてるだけで何かしちゃってるって、完全に積みゲーだ。


でも、私の「何もしたくない」という欲求は、生命活動とはまた別の意味な気がする。
だって、私は死にたいと思っているわけではないから。
痛そうだし。結構体力いりそうだし。生きるより死ぬ方が面倒だ。

じゃあ、私の「何もしたくない」って気持ちは一体何に対してなの?
逆に、私って何ならやりたいと思うわけ?
ちょっと書き出してみることにする。

地方に住むのに憧れる。ゲストハウス運営も素敵。
自分の畑があったら楽しそう。食育の勉強もしてみたい。
記事を書くのが楽しい。インタビューライターになりたい。

色々思い浮かぶっちゃ浮かぶ。
でも、「何もしたくない」気持ちが拭えず、どうしてもそれに向けて動き出せない。

あっ。ここまで書いて気づく。
私の「何もしたくない」って、「将来を見据えた行動をとりたくない」ってことと同義なんだ。

「刹那的に、目の前にある娯楽を消費するだけでいたい。」
そういう欲求の表れが「何もしたくない」という感情だったのかもしれない。
そんな自分になってしまうのは嫌だけど。


いつか何もしたくなくなくなる日は来るのだろうか。
それとも、何もしたくなくても無理やり動いたら道は開けるの?

明日、目を覚ました私は何かをする気になっているだろうか。
明日の私に期待しながら眠りにつく毎日にそろそろ終止符を打ちたい。




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