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わたしを支える3本の柱

子どもたちを見ていて思うこと。
人がニンゲンとして育つには、3つの柱を伸ばす必要がある。

1つめは、自分と語り合うことで伸びる柱。


自分の感情、感情を揺り動かすものごと、自分の取りやすい行動、性格。
自分がどんなことに眉をひそめ、どんなことに熱く涙を流すか。
ものごとをどのように感じやすいか。
どんな理想を持っているのか。どうやって生きてきて死んでいこうとするのか。

そういう、自分と語り合って自分で自分をわかっていく道のこと。
そうして自分が何者なのかを知ること。
それを、じっくり自分と向き合い、自分と語って、ことばにしながらわかっていく。そんなことで伸びる柱。

自分が思うより、自分は自分にとって他人だよね。

わたし昔摂食障害で、過食嘔吐してた時があった。その時は、自分が食べたくもないものを手に取って、買って、口に入れて、吐いて、自分の行いが全部全部他人みたいだった。だって「わたし」は食べたくないのに、〈他人な自分〉はいそいそとスーパーに行って、半額になったパンとか買って帰り道に耐えきれず口に詰め込んだりしていた。そして「わたし」はそれを吐くことが無駄だ、体に悪いとわかっているのに、〈他人な自分〉は夢中で胃に押し込み、吐きやすいように水分を含ませることまでして、そして便器を抱え込んで吐いていた。
その〈他人な自分〉を自分のコントロール下に置きたくてさらに自分から遠ざからせていたような気もする。
自分と語り合うことをしていないと、どんどん自分が他人になって、自分が生きている体の中から消えてしまう。
だから、小さい時間でも「自分っていまどんな気持ち?」「何に心が動いてる?」「どんなものがいま、目に入るかな」と問いかけて、自分と一緒に自問自答(まさに)して、「自分」という柱を伸ばしていくんだと思う。

本を読んで、感情移入して言ったりするのも、自分との対話を伸ばしてくれるのかも。
わたしは、知らない路地を散歩しながら少しずつ他人の言葉を自分から剥がしていく。そうして、やっと自分と自分だけになったところで、家や山や海を見ながら、自分とお話しするのが好きだな。

2つめは、人と語り合うことで伸びる柱。

わたし、お別れしちゃった友だちがいてね。
その子との日々は楽しかったなあと今でも思い返す。だけど、こういうコミュニケーションとか人と生きていくこととか学んでから思い返すと、友だちにはすごく悪いことをたくさんしたなあと思うこともある。それは、その友だちとちゃんと「語り合い」してなかったから。
好きなことが一緒で、年に何度かお泊まりしたり、ツキイチで飲んだり、住む場所違って社会人同士なのに結構頻繁に会ってた。けど、友だちとの会話を思い出すと、彼女の感じたこととか、どうしてそういう気持ちになったのかとか、そんなおしゃべりはしたことなかった。わたしが、一方的に価値観を押し付ける会話が多くて、わたしと彼女の間で感じ方が違うことがあっても「あ〜ねそれある!」と薄っぺらい共感と同調で、彼女の気持ちに同化しようとしてた。ううん、知ったかしようとしてた。彼女のこと、気持ちも価値観も全部わかるよ〜ってマウント取ろうとしてた。

わたしの「人と語り合えてない」話なんだけど、痛い思い出を振り返って分析すると、人と語り合うってどういうことなのかがわたし本人にもちょっとだけ実感できる。

相手と自分が違う人間であることを前提にする。

相手の気持ちをそのまま受け取る。そして質問を投げてみる。
自分と違う人間のあなたを、もっと知りたいという好奇心だけを抱えて。
返ってきた質問で、わたしもわたしのことを考えたり、相手のことを考えてみたりする。そうこうしているうちに相手も、同じようにわたしとの間でキャッチボールしてくれるかも知れなくて、じんわりじんわり、相手のことを知りたい気持ちが育って、満たされて、また投げて、受け取られていく。

気持ちの話だけじゃなくて、学説とか、考え方とか、そう言うのもきっとおんなじ。
相手には相手の地層と表層と、昔と今と未来がある。
わたしにもきっと同じように地層と表層と時間軸があって、でも「自分だから見えてる」ってわけじゃない。誰かと一緒にサーチしながら見つけていく地層があると思う。

わたしはいったことのない国を、いったことない時期に行ったあの人の話を、知ったかせずに、マウントせずに、勝手にわかったり勝手にわかんないって決めたりせずに、ただ聞く。
それで初めてなしえていく、人と交わってできる柱。
この柱のことを言っている。

子どもから発達していく段階で言うと、「人の気持ちになって考える」みたいなのがこれにあたる。「あなたはどんな気持ちでいるの?」を聞いたり、考えたり、物語の中で想像したりしながら、気持ちのバリエーションを増やしていく。そういう柱。

3つめは、自分の生きる世界で語り合って伸びる柱

これはね、人によって違いすぎるからまとめようとして↑このことばになった。

わたしのいまお仕事してる先の一つに、Telacoya旅する小学校がある。
Telacoya旅する小学校は、海洋教育を軸にした独自のプログラムで授業を組み立てている私設小学校。ここに通う子どもたちと、支える大人たちは、「葉山町」にある学校で、「海」を学びの場として生きている。
この子どもたちにとって、「自分の生きる世界」は「葉山町」であり「海」だ。だから、子どもたちは「海」と語る。今日の波はどう? 最近どんな生き物がいる? 「葉山町」と語る。海のプラスチックごみを減らしたいんだけど、こんな方法はどう?

もしかしたら2つめの柱と似たところがあるのかもしれない。「自分の生きる世界」には人間もいるから、その人間と話したら「人と語り合う」ことにもなる。それも含めて、自分がここで生きていくんだ!と決めた場所で、その場所にいる人や、自然や、歴史や出来事と語り合っていくことで、人はその世界における居場所を見つけ、根差し、城なり島なり国なりを作る。

わたしはちょっと前まで同人活動をめちゃめちゃ頑張っていた。


現物よ

「同人活動」が自分の生きる世界、と決めたら、そこに生きる人たちとめちゃめちゃに語り合い、作品世界を分析しまくり、関連する書籍や舞台となった場所を訪れて、探求を深めて自分でも描く。描くにしても、できるだけより良いものになるように…気持ちを込めて鍛錬したり準備したりする。そうやって自分でサークル活動をするようになると、なんだか自分が一個城でもブチ建てたような気持ちになった。その気持ちは他のサークルさんも持ってることがあって、アフターで飲みながら「うちのところは人ざと離れた集落よ」「孤城守り続けてます」みたいにお話ししてくださる方もいた。自分の好きなものは他と交流させずに、「サーバーに繋がっていないホームページに時々作品を載せている」とおっしゃる猛者もいた。ずっと、ご自宅のパソコン内だけで完結するホームページに作品を更新し続けているんだそうで…頭が下がる…

こういう、自分が好きで、ここで生きていこうと思う場所とか部門で、人でも物でもコンテンツでもなんとででも語り合うようなことで伸びていく柱。それが3つめの柱である。

まとめ

これらの柱が組み合わさって、わたしと言う存在を支えている。
どれかが欠けることで、わたしは崩れていく。細々とでも保てていれば、わたしは支えられ、もしかしたら少しずつ伸びていく。
体は老いさらばえる。
脳はいつか記憶する力を失う。
けれど人が人として、わたしがわたしとして伸びていくとき、この三本の柱によって支えられているのだと思うと、歳をとり、大きくなっていくことがちょっといい感じになる。

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