サドル狂騒曲(番外編)青葉と恭平のオフィスラブ 最終回 蒼天の下で 

夢を見た。

 どこまでも続く緑の草原を私は裸足で歩いている。空は青くて、地平線の向こうまでずっと続いて遮るものは何ひとつない。地面は柔らかい牧草で覆われて、素足に心地よく絡まってくる。風は温かいから、きっと初夏だ。私は白い半そでのワンピースを着ている。

 誰もいない草原の真ん中で、私は必死になって誰かを探している。何処にいるのか見当もつかずに、前後左右をくるくる見渡してその人の影を捕まえようとしているけど、見えるのは空の青だけで後は何もない。
 どうしよう、私は泣き出しそうになって服の裾を握った。ひとりぼっちは嫌だ。どこにいっちゃったの?でも探しているのが誰か、自分でもわからない。その時遠くから声が聞こえた。

 青葉、こっちだよ、おいで

 顔を上げたら前方のずっとずっと先に、背の高い男の人がいる。見つけた!私は嬉しくて走り出す。急げ、急げ、早く追いついて抱きつくんだ。
あの優しい手に包まれてこの青い空を見上げるんだ。
 私は名前を呼ぼうと声を出すけど…  声が出ない。必死で振り絞っても彼を呼ぶ声が出ない。そうしているうちに彼は歩き出した。

 嫌、行かないで、行かないで!

 ああ、姿が見えなくなる。私は走って走って、消えていく彼の背中に向かってやっと大声で叫んだ。

 あなたは、誰なの


 夢はそこで途切れた。私は目を閉じたまま布団に横たわって、夢のストーリーを反芻する。あの人は誰だったんだろう。見慣れたような知らないような、でも、懐かしい響きの声だった。この次は、きっと顔が見えるだろう。そう思えば眠る事も楽しくなる。
「 面白い夢をみたのよ 」
私はそうつぶやいて目を開けた。古ぼけた6畳の和室に敷いた布団。起き上がり辺りを見回す。部屋には誰もいない。そう、いつもの独り言で私の一日は始まる。

ここは帯広にある私の生家。馬の生産管理を手掛ける北岡牧場。4月の朝はまだ寒くて、春の温もりはまだ遠い。窓の外を見るともう薄い靄が山の稜線沿いに広がっている。朝だ。馬に餌をやって、運動させないと。私は起き上がってスウェットを脱ぐと厚手の靴下を履いてセーターと汚れた作業着に着替えた。そしてお風呂場に行ってお湯を捻り顔を洗う。顔は化粧水と乳液を塗ってそれでおしまい。お化粧はもうほとんどしたことがない。茶の間の隣にある小さな仏間に行ってお花の水を替える。私の両親、そして昨年亡くなった祖父に手を合わせて目を閉じると、しばらく心の中で家族と会話する。

 父さん、母さん、おじいちゃん、仕事は何とかやってるよ。一人になったけど畜産組合の人たちがみんな良くしてくれるから助かってる。おじいちゃんが遺した貯金と生命保険で厩舎の改築も出来たし、預かってる馬5頭の世話もやっていけてる。ありがとうね。今日は東京から久美子が会いに来てくれるんだ。楽しみ。私の誕生日を祝ってくれるって。

 目を開けて立ち上がると手でそっとろうそくの火を消した。小さな写真の中の家族は笑って私を見ている。

 明日で私は28歳になるんだ。東京を離れて、もう6年になるよ。

 遠くで馬の嘶きが聞こえる。私は勝手口で長靴に履き替え引き戸を開けた。冷たい空気が頬を包むけど、ほんのわずかに春の気配がする。ヒヨドリのさえずりに迎えられて私は厩舎へ足早に向かった。


 6年前の冬の夜が,雄太さんと恭平さんと顔を合わせた最後の日だった。私は二人の求婚と復縁を同時に断った。理由は、どちらを選んでも後で必ず後悔するとわかっていたからだ。二人とも私を深く愛してくれていた。その気持ちは今でも感謝している。でも、私はその愛情に応える確実な何かを持っていなかった。言い換えたら、まるで競うように私を追いかけた二人にとって、結婚や復縁というゴールの後に何が残るのだろうという疑問だった。妻や恋人として自分を支えてくれる役割を期待して、それに従う私を想像して幸せを描いていた雄太さんと恭平さん。私は二人の男性の間で翻弄されながら、どちらを選ぶかという狭い選択肢の中で傷ついて悩んだ。でもあの日ベッドルームで二人の口論を聞きながら、私はやっと納得できる結論を見つけた。

 どちらの手に引かれて歩く事もなく、自分の足で歩く道を選びます。

 驚いたことに、二人とも私の結論に何の依存もなく同意してくれた。部屋を出る私を見送る時、最後にドアの前で振り返った私に笑ってくれた二人は、仲の良かった同期の二人に戻っていた。

  それきり私たちは会うこともなく、それぞれとの短い関係に終わりを告げた。
 
 暗く冷たい雨が降る帰り道、私はあれだけ毎日頭から離れなかった彼らとの思い出を何一つ顧みることなく家路を急いだ。濡れた地面を一歩また一歩と踏み込むごとに、これからどうやって生きていくかを考える自分がいる。生まれ変わった新鮮で新しい自分が芽生えていく。気付いたら体が熱かった。さあ、気持ちの整理をして来週から頑張ろう。私は自由なれた解放感に浸りながら、その一方で心の奥にあるひとつの小さな想いに時の砂をかけていった。
 
 私に差し出された2つの手。選ぶなら、どちらを取るか本当は心に決めていた。それが私が本当に愛した人。でもその手を握らなかったのは、誰のためでもない自分のためだった。後悔なんてしていない。だって今こうして北岡牧場の3代目を継ぐことが出来た。馬たちに飼い葉やりながら顔を撫でて様子を確認する。外は完全に明るくなって、厳しい寒さが朝の光に溶かされていく。さあ、運動の時間だ。終わったら厩舎を掃除して蹄を手入れして支払いしに銀行へ行って、昔の事なんて考える暇なんてない。私は今幸せなんだ。そう言い聞かせる。何度も何度も。

 でも、この6年間、毎日欠かさず思い出すのは彼の姿と声だった。今日の夢に出てきた人も、きっと彼に違いない。こんなにまで彼を忘れる事が出来ないなんて本当に不思議だ。だって、実はこんなに好きになっていたなんて別れてから気づいたんだもの。二度と会わないから懐かしく想いを巡らせるんだと思って帯広での生活を送っていたけど…   おじいちゃんがいなくなって本当に一人になって少しずつ彼を思い出す時間が増えている。
 ただ寂しいだけだ。昔の恋なんて、色があせていくネオンと一緒よ。先週久美子と電話で話した時もそう言ったけど、恋愛ナビゲーターの親友の意見は辛辣だ。きっと今日も思い切り突っ込まれるんだろうな。少し悔しいけど、ものすごく楽しみだ。だって、久美子は昔の私を認めてくれる戦友だもの。朝日の差し込む厩舎の窓越しに外を見る。なんだか妙に浮いた心のせいか景色がいつもと違う感じ。今日は特別な1日になる予感だ。私は一番若い馬を連れて馬場に出た。いい天気だし心と体の切れも最高。ああ、東京から戻って良かった。私はそう自分に言い聞かせた。そうしないと、何か変な事を考えそうで少し怖かった。ちょっといつもと違う朝に、なぜか緊張している。


 帯広駅に久美子を迎えに行き、予約していたジビエのフレンチレストランに入ったのはもう午後1時を回っていた。1日早い誕生会のメインは鹿肉のステーキと香味野菜のゼリー寄せだ。札幌から特急で駆け付けた久美子は相変わらず華やかで都会の女の子を満喫している。
「 北海道は2回目だけど以前よりお店の雰囲気が垢ぬけてきたわ。仕入れたアクセサリーもセンスが東京の作家と変わらないし、見て、ラベンダーのドライフラワーとセットで売ればアジアのお洒落な子に絶対ウケるわ 」
 自慢げにピアスやネックレスをテーブルに広げる久美子は、今では雑貨販売をてがける会社の社長だ。私たちはノンアルのワインで乾杯する。こうしているとOL時代にランチを楽しんだ昔に戻ったみたいで懐かしい。
「 楽しそうね。婚活命で合コンやってたあの頃とは別人じゃない 」
「 青葉のお陰よ。6年前に会社を辞めて牧場を継ぐって言いだした時はどうかしたと思ったけど、私も1度きりの人生好きな事をやってみたいと思うようになったもの。旦那の財布を当てにして小さく生きるより断然やりがいがあるしね 」
「 田舎の個人事業主は大変よ。こっちは東京と違って女ひとりだと周りに気を使わないと助けてもらえないのよ 」
「 東京だって一緒よ。失敗も成功も、自分のやり方次第。負けないように努力すれば報われるし、その方が割り切って生きていけるわ 」
 本当に、アラサーになった私たちは強くなった。今つついている美味しいキャビアの前菜も、収入と健康があってこその恩恵だ。久しぶりの外食で気分が乗って2杯目にペリエをオーダーしたら、唐突に久美子が口を開いた。
「 ところでさ、例の2人とあれから連絡取ってるの?」
「 まさか。別れたきり会ってないわ 」
 無関心を装おうと無理して、喋り方が不自然になる。察した久美子はにやりと笑ってグラスを飲み干した。
「 まあかなり衝撃的な展開だったものね。私も後から聞いて心底驚いたわ。真面目OLの青葉がまさか、あんな王将を2枚も抱えてしかも振っちゃうなんてさあ… 」
 確かに、別れた後の彼らはその後予想もしなかった道を歩んだ。

 雄太さんは予定通り年明け早々単身で海外赴任していった。かなり辣腕を振るっていて戻れば部長昇進と言われたらしいけど、赴任3年目にインドネシアの国営企業にヘッドハンティングされ退職。その後の消息は不明で、実家の会社を継いだとかアメリカで起業したとか噂はあったけど、もう誰も彼を知る人はいないらしい。

 恭平さんはもっとすごかった。私と別れた翌年の2月に突然三条専務と入籍しダブル寿退職して会社中が騒然とした。専務の故郷広島へ移住してNPO法人を立ち上げたけど… 2年後に離婚。その後の足取りは情報通の久美子ですら掴む事は出来なかった。

 雄太さんと恭平さんが東京を離れるのを見届けるように私も3月末で会社を辞めた。当時は私も忙しくて二人のその後に思いを巡らす時間もなくて、結局6年という時間が一瞬で流れていった。明日私は別れた時の恭平さんと雄太さんと同じ年齢になる。もしあの時彼の手を取っていたら、今頃私は結婚して彼の子を育てながら日々を送っていただろう。こんな陽に焼けたすっぴんじゃなくて、小ぎれいに化粧した都会のママを演じてたのかも。似合わないな。私は自虐気味に笑った。
「 青葉は結婚しないの? 」
「 そんなお金も時間もないわ。久美子こそどうなのよ 」
「 私のビジネスを支援してくれるインフルエンサーならウェルカム。家事と子育てを要求されるならお断りよ。でも、私ならあの時進藤さんか如月さんのどちらかを選んだな。あんなハイスペックはなかなかいないわよ 」
「 ねえ、そんな話はもうやめよう 」
 おかしいな、今日の久美子はいつもと違う。変に絡んできて私から何かを聞き出そうとしてるみたいだ。
「 もう教えなさいよ。本当はどっちを選ぶつもりだったの? 」
「 しつこい! 両方断るつもりだったの。それが本当だってば 」
「 私はあのオフィスラブはまだ現在進行形だと思ってるけどね 」
 急にドキリとした。これは久美子お得意のからかいだろう。でも、すごく胸がざわめく。ダメ、彼を思い出してしまう… 私はウェイターを呼んでデザートとコーヒーを頼んだ。もう3時を過ぎている。ラストオーダーの時間だ。牧場に戻らなきゃ。そう、私は一人なんだから、頑張らないと。
「 今度は青葉が東京に来なさいよ。大手町界隈も変わったけど、まだランチで通ったお店が残ってるわよ 」
「 日帰りならいいけど… あ、空港まで送るから。今日は奢りよね。サンキュー 」
「 うふふ… 次はしっかり元を取らせてもらうわよ 」
 意味深な笑いでコーヒーを啜る久美子はほっといて、私の頭はもう残した馬たちの事で一杯だ。東京か、もう行くことはないだろうな。

 だけど、一瞬、頭の中でざっと風が吹いて、閉じていた思い出のページがめくれていく。
「彼」と歩いた街。「彼」と食べた食事。「彼」に抱かれたベッドのシーツ。目尻が熱くなって私は俯いた。

 終わった季節。終わった景色。全ては遠い日の花火。
 
  舞い散った思い出の欠片を丁寧に拾って、私は心の奥の引き出しにしまいこんだ。


 帯広空港に着いた時はもう日が傾き始めていた。送迎用の駐車場で久美子を下し、私たちのつかの間の再会は終わる。
「 東京に着いたら一応連絡してね 」
「 うーん、その前に青葉から連絡が来るかもしれない 」
「 え、何よ 」
「 実は別便でプレゼントを贈ったの。入れ違いになるといけないから、早く戻って 」
 一方的に告げると手を振って久美子は搭乗口へ向かう。もう、そういう謎解きみたいなサプライズは苦手って知ってるくせに…
「 連絡なんてしないわよ! じゃあね!」
 私はおんぼろの軽自動車に乗り込むと空港前の長い道路を抜け国道に出る。帰りつく頃にはかなり暗くなってるはずだ。急がないと。シンデレラをもどきの昔話は忘れて、田舎の牧場主になった私は帰るべき場所へ向けて走り出した。


 
 牧場の手前まで来たらもう空は夕暮れの気配だ。気温が下がるから急ごう。少し急な左カーブをスピードを上げながら曲がると、牧場へ入る未舗装の道を1台のタクシーがこちらに向けて降りてくる。私は驚いてスピードを落とした。あそこは行き止まりで私の牧場に用がある人以外は入らない。一体、誰?

 ハザードを出して止まると運転手が顔を出した
「 うちの牧場にお客さんですか ?」
「 はい、北岡牧場は帯広はここしかないと言ったら、お願いしますと言われました 」
「 あの、どんな方ですか 」
「 若い男性ですよ。空港からお乗せしたから東京の方と思います 」
走っていくタクシーはもう目に入らなかった。別れ際の久美子の言葉が混乱する脳細胞から何度もリフレインする。

実は別便でプレゼントを贈ったの。入れ違いになるといけないから、早く戻って 

もしかして久美子は全部わかって私を騙したの?私は携帯電話を出した。いや、ダメだ、もう久美子は飛行機に乗っている。とりあえず帰らなきゃ。ハンドルを握る手が震えて車が派手に左右に揺れる。でも私の心はもっと激しく震えている。

 彼が、ここに来ている。 6年間、忘れなかった彼が…


 
 母屋横にある駐車場に車を止めると私は10メートル向こうにある厩舎に向かって歩いていく。入口の横に置かれた大きなキャリーバッグが見えた途端、緊張と息苦しさが全身に走る。でもどうしよう、お化粧もしてないし、こんな地味な服装だし、髪はセットしてないし…… それに私はもうアラサーのおばさんだ。若かった北岡青葉じゃない。もし会って彼をがっかりさせたら… ネガティブな言い訳に戸惑ううち、キャリーケースのすぐそばに辿り着いた。シルバーのケースの上に、淡い色のバラのブーケが静かに光っていた。
 私の好きな色、私の好きな花。彼だ、やっぱり間違いない。ほの暗い厩舎の奥から馬の低い鳴き声がする。みんな大人しい。彼を受け入れてくれてるんだ。私はいつの間にか泣いていた。

あの日、握ることが出来なかった手がそこにある。やっと一人で生きていけるようになって、それでも彼を毎日思い続けて、夢の中で会える事を小さく願って、それから… 私はもう何も考えられない。だって、彼はすぐそこにいる。私に会うために6年間を飛び越えてやってきたんだ。顔を見たら何と言おう。好きです、会いたかった、いいえ、私はきっと何も言えない。


 厩舎の柱に手をかけて中を覗いた。一番奥の窓際、もう暗くてよく見えないけど目を凝らしたら長身で広い背中が目に飛び込んだ。その瞬間、私は夢の中のように声が出なくなった、彼は馬の顔を珍しそうにのぞき込んでいる。何か、何か言わなきゃ。彼に気付かれる前に、振り向かれる前に。

 あなたは、誰?わかってる、大好きな、あなた。

 背中が動いて、ゆっくりその影が動き始める。振り返るその瞬間が突然止まって消えてしまわないように私は息を吸って目を見開いた。

 さあ、青葉、勇気を出して。

 目の前には夢の中と同じ、雲ひとつない蒼天が広がっている。




 完


長い間読んでいただきありがとうございました。心から御礼申し上げます。

                      作者   blueglassより

 
 

 

 
 

 


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