サドル狂騒曲66 黒髪は媚薬

「 ごめん、君とは結婚できない 」

 応接室のソファに腰かけた美奈子は、雄太の言葉に動揺を隠せず表情をこわばらせた。そばにひざまづいた雄太は、黙って美奈子の手を握った。抱き合った後の余韻でピンク色に輝く白い肌はまだ熱い。言葉を告げない代わりに美奈子はもう一方の手を雄太の手に重ねる。雄太の発した言葉の真意を探り当てるのに必死になる美奈子が不憫で、雄太はその手に自らの生気を吹き込むように力を込めた。しかし、傍らで様子を見守っていた瑞枝と藤子はそう黙ってはいられない。まず藤子がヒステリックな声で沈黙を破った。
「 雄太さん、このお話は正式に進藤家からいただいているんですよ。それをあなたの一存で勝手に取り消されたら私達堀川の立場はどうなるんですの?」
「 私がこの縁組を聞いたのは昨年の暮れです。しかも事後承諾のような形で弁護士から一方的に告げられました。すぐに撤回するよう言ったのですが、そのような話になっていないなら当事者の私がお断りするしかありません 」
「 それはあなた方の事情であってうちには関わりない事。このまま縁組は進めていただかなければ困ります 」
「 婚姻は双方の合意があって初めて成立します。周りが勝手に決めるなど時代錯誤も甚だしい。美奈子さんと俺はもう16年会っていません。それに彼女の意見をちゃんと聞いたかも疑わしい 」
「 失礼な… 美奈子は大層喜んでこの縁談を受けたんですよ!それとも、目が見えないから進藤家の跡取りにはふさわしくないとでも?」
「 藤子、よしなさい」
瑞枝は気色ばむ藤子を制して、雄太の横にひざまづいた。品のある面長の顔と鼻筋は美奈子のそれとよく似ていた。
「 雄太さん、今回のお話は美奈子も突然で悩みました。ですけど、幼馴染の雄太さんなら安心して頼っていけると心を決めています。それに… 」
 言い淀む瑞枝の心中を察したのは美奈子だった。
「 雄太さん、さっきも言った通り私は自分の役目はわかっているの。進藤家の跡取りを産むことでしょう?雄太さんの血をつなぐために私の体が必要だから… 」
「 やめろ 」
「 美奈子は全て受け入れて進藤家に嫁ぐんです。その気持ちだけでも受け取ってやってくれませんか 」
 確かに、瑞枝の言葉には母としての深い思いが感じられる。しかし雄太は次第に混乱してきた。この女たちは結婚という言葉の意味を理解しているのだろうか。神を敬う娘や姪が繁殖用に格下の成金華族へ身売りしようとしている事は家名を汚す以外何物でもない。何故そんなにこの策略婚にこだわるのか…

 雄太は片手で耳に手を当てインカムからの音声を聞いた。美奈子の小さな手は必死に雄太の拳を握っている。「わかりました」とマイクに返事をすると雄太は美奈子からそっと手を外す。
「 迎えの車が来たよ 」
雄太の微笑みは優しすぎて、裏腹に美奈子の期待をはぐらかした。雄太の逞しい腕が美奈子の体を抱き上げると、美奈子は諦めたように顔を雄太の胸に預ける。耳に夏の暑い熱気と幼いはしゃぎ声がよぎるが雄太はそれを振り切るとエントランスへ歩き出した。瑞枝は藤子を促し後を追うがまだ藤子は興奮が収まらず毛皮のコートを乱暴に椅子からひったくる。
「 帰りましょう… もうこんな時間よ 」
「 話が違うわ。予定なら月末には結納の使いが来るはずなのに、注文した着物や帯留めだってキャンセル出来ないのよ 」
「 そんな話はやめて。こんな所で… 」
「 例の前金の振込がないと困るの…溜まってる支払いを払うと言ってしまったから、このままじゃ私外を歩けないわ 」

 
 … そうか、金か。 

 雄太は背中で女たちの会話を聞いていた。それが理由ならすべてが納得いく。怒りで震える唇を噛むと、美奈子を支える手に激しく力がこもりそうになり雄太は立ち止まり息を吐いた。
 権力で家督の維持を図るクズと、守るべき若い美奈子を借金の形に平気で売り飛ばす腐った老婆共。何も知らない美奈子は、このままと汚れた金と引き換えに冷たいステンレスの台に縛り付けられて、無垢な身体に俺の種を仕込まれる運命なのだ。
 絶対に許さない。高ぶる思いが雄太の五感に火をつける。
「 今週末にそちらに伺います。今日は色々行き届かない事もありましたし、美奈子とゆっくり話したいのですが 」
 美奈子は小さく体を動かしたが、雄太がきつく抱き寄せると遠慮がちに顔を上げた。白く小さな額に雄太は軽く口をつけると、大股でドアを開け廊下に出ていく。瑞枝と藤子はぽかんとその背を見ていたが、藤子はすぐに笑顔を浮かべてミンクのコートを羽織った。
「 それは喜んで。美奈子が好きなお茶を用意してお待ちしますわ 」
 藤子はまだ茫然としている瑞枝の腕を引っ張って雄太の後を追った。急な展開に美奈子は戸惑い雄太のシャツを握る。

 「 雄太さん… 怒っているの?」
 「 いいや。飲むなら俺は濃いめのコーヒーがいい。手土産の菓子は何が  欲しい?」
 「 喜祥堂のカステラがいいわ 」
 「 紀尾井町に本店があったな。わかった。御母堂と伯母上には水菓子を用意するから 」
 「 … うれしい 」

 さっきまでの悲しげな顔を消えて、美奈子は穏やかな笑みを浮かべ雄太に身を預けて安堵している。雄太は前を見据え、腕の中で甘える可愛い小鳥を守る術に思案を巡らせつつ、その片隅に浮かぶ恭平の美しい横顔に激しい想いを寄せる。

 恭平、すまない。もしかしたら俺はお前を裏切るかもしれない。

 廊下の先に明るいロビーとエントランスが見える。天井から垂れる巨大なシャンデリアから放たれる光は豪奢で危険な魔性に溢れ、手負いの狼に守られた寂しい兎を鮮やかに照らし出した。



 目が覚めて、私はベッドの中でしっかり恭平さんに抱かれている自分に気づいた。今何時だろう。枕元の目覚ましがかろうじて見えた。午前1時半。確か二人で一緒に布団にもぐりこんだのは10時前だ。あれから私はすぐうとうとして、隣で煙草を吸ってる恭平さんの横顔を見ながら寝落ちしたんだ。裸の恭平さんの胸に顔を埋めてクスンと鼻を鳴らすと、恭平さんの体が動く。煙草の匂いがふわりと揺れてなぜか切ない気持ちになる。
「 起こしてすいません 」
「 いいや… 寒くない ?」

 返事の代わりに背中に手を回すと、甘いキスが返って来る。彼は多分、あまり寝ていないはずだ。だって、雄太さんからの電話をきっと待っていたはずだもの。
「 進藤チーフに連絡しなかったんですか 」
「 … 知らないよ。若いお姫様のお相手で忙しいんだろうから 」
「 雄太さんは少し困ってたみたいでした 」
「 ユウはああ見えて優柔不断だからね 」
 そう言って恭平さんは私を抱きしめた。ネルのパジャマを着ていても腕や腰回りの逞しさが伝わって、私はつい喘いでしまう。雄太さんは恭平さんをどうやって抱くのかしら。そんないけない妄想をしてしまうようになって、私は顔を赤くして俯く。処女なのに、恋人もいないのに、私は二人の手や唇に包まれて甘い夢を見る。
「 ユウは俺と違ってゲイじゃないから 」
「 … え?」
「 俺がいるから、全部ややこしくなるんだよ」
 そのまま、恭平さんは黙って私を腕に包んで目を閉じた。その先の言葉が気になったけど、私は喉元にひっかかっている言葉を飲み込んだ。
 
 大丈夫、こんなに愛し合っている二人が離れるはすはない。

 小さく泡立つ不安を忘れたくて、私は彼の方に毛布をかけながらおまじないをかける。

 この次は、3人でお鍋を食べて、3人で眠りたい。手を絡めて眠る二人の間で、子どもみたいに二人の匂いを感じながら眠りたい。

 軽く意識が遠のいて、眠りの気配に誘われる極上の瞬間に抱かれている喜びに今は浸りたくて、私は盲目の美女にまとわる黒髪を無理やり記憶の底に押し込んだ。




 
 

 

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