サドル狂騒曲(番外編)青葉と恭平のオフィスラブ 40 決断の時

 ベッドルームで私は窓際のカウチに腰かけたまま窓の外を見ていた。服は着替えていつ呼ばれてもいいようにしたけど、恭平さんの前で上手く話す自信なんてない。私は彼を忘れて雄太さんと新しい毎日を生きようと決めたのに、いつも心のどこかで恭平さんの背中を探している。彼を憎んで忘れようとしてもそれは一瞬の悪あがき。優しい笑顔と楽しかった毎日がどうして嘘みたいに消えたのか今でも納得いかないのに、雄太さんの求婚を受けて違う道を歩く勇気はない。でも私は雄太さんに抱かれてつかの間だけ現実を忘れる。
 私の全てを受け入れて愛してくれる雄太さん。私を拒絶して別の人を愛し始めた恭平さん。こんな気持ちのままどちらかを選ぶなんて… 私には出来ない。
 自分が消えてしましたいと思う瞬間はこんな時だ。私がいれば二人にただ迷惑をかけるだけ。どちらの胸にも飛び込めないなら、違う場所でこんな体と心を投げ捨ててしまいたい。窓際の明るい夜景が涙でぼやける。息苦しさに追われて私はベッドに倒れこんだ。あの扉の向こうにはもう恭平さんがいるはずだ。彼は何を話すの?また雄太さんと喧嘩になったらどうしよう、それとも私にひどい言葉を浴びせかけるつもりなの?

 突然あの夏の昼下がりに見た、狂ったような恭平さんの顔が私の視界一杯に広がった。鬼の形相で私を睨む、白く光る日光が陽炎みたいに揺らめいて…

 私は叫び声をあげそうになって、顔を思い切り枕に押し付けた。


 広すぎるリビングの中はいつまでたっても暖まらない。代わりに床にたまった冷えた空気が二人の男たちの足を重く包む。雄太と恭平は同時にカップののコーヒーを口にした。かすかな温もりと苦い味が舌に刺さるが、座ったままの二人の間に横たわる沈黙を破る熱気には程遠い。業を煮やして口火を切ったのは雄太の方だった。

「 言いたいことがあってきたんだろ… 早く言えよ 」
 恭平は3本目の煙草に手を伸ばしかけてやめた。淡いライトに照らされた横顔からは何の感情も見えない。昔はもっと表情があって喜怒哀楽がわかりやすい男だったのに。雄太は恭平と過ごした思い出を記憶から手繰り寄せよた。新卒時代、学生気分がまだ残っている俺たちは年中徹夜で飲み倒した。あれから7年経ったのか。懐かしい。あの頃、俺も恭平も無邪気でバカで若かった。雄太は思わず苦笑した。
 こいつはもう俺の知っている如月恭平じゃない。だがこいつがどうであれ、追い返す権利は俺にない。選ばれなければ、出て行くのは俺だ。
 雄太の心は既に決まっていた。

「 青葉を、取り返しに来たのか 」
 雄太の言葉に、恭平は初めて雄太を見た。目には険悪さも憎しみもなく、わずかだが穏やかさが浮かんでいたことが一瞬雄太を狼狽させた。
「 今日専務からお前が海外に行くと聞いた 」
「 早いな… 俺は今週に入って聞いたばかりなのに」
「 どこへいくんだ。北米か 」
「 インドネシアだ。多分石油の掘削事業の案件がメインになるんだろう 」
「 利権がらみでかなり交渉が大変らしい。まあ雄太ならそこらの華僑や印僑に負けることはないな 」
「 買いかぶるなよ… こう見えても気は小さいんだぜ 」
 二人同時に笑った。恭平の顔には部屋に入った時の尖った雰囲気はない。しかし雄太には恭平の本当の目的がわかっていた。恭平の背は、背後にあるベッドルームの気配を伺っている。そこに青葉がいることが既にわかっているのはまだ思いが途絶えていない証拠だった。
本題に入ろう。雄太は灰皿でくすぶる煙草をもみ消した。
「 青葉に会いにきたんだろ。呼んで来るから待ってろ 」
「 待て。その前に答えてくれ。青葉を連れて日本を離れるのか 」
 立ち上がりかけた体を再び椅子に収めて雄太は恭平を見た。
「 そのつもりだ。何度もプロポーズしたがまだ返事はもらっていないけど 」
「 俺はもう彼女に何も言う権利はない。お前なら、きっと彼女を幸せにできる。色々失礼な事をして悪かった 」
 一つ息をついて恭平は立ち上がると傍らのコートを手に取った。
 逃げるのか?軽い苛立ちが雄太を襲う。
「 俺の質問にまだ答えてない 」
 恭平は首を振った。
「 青葉はお前のものだ 」
「 違う、俺たちじゃない。決めるのは青葉だ 」
 立ち上がった雄太は恭平に近寄った。しかし恭平は視線を避けてネクタイを締めなおす。押さえていた思いがとうとう雄太の口から迸った。

「 青葉は、眠りながらお前の名前をベッドの中で何度も呼んだ 」
 
 雄太を見る恭平の目の奥で何かが光った。必死で押さえつけた感情が解き放たれて乾きかけた傷口に無情の矢を突き刺す。恭平は理性を保とうと握りかけた拳でソファの背を掴んだ。
「 その話は俺にするな 」
「 殴りたきゃ殴れ。はっきりしないと、俺は青葉と一緒になれない 」
「 俺の気持ちがお前にわかる筈がないんだ 」
 恭平の声が部屋に響いた。青葉がドアのすぐ向こうにいる。その気配は二人とも気づいていた。互いの思いをぶつけるのは今しかないとわかった以上は、互いにもう後に引くことは出来なかった。
「 横浜で青葉に別れを言った後、俺は何度も彼女のアパートまで走った。あれは嘘だ、本当は死ぬほど愛していると言いたくて、一晩中窓の外で青葉の影を見つめ続けた 」
「 じゃあとっとと言えばよかったんだ。おかげでどれだけ青葉が苦しんだかわかってるのか 」
「 俺は狂ってる。俺はそばにいる人間を不幸にする。他の奴はともかく青葉だけは苦しめたくない 」
「 それでも青葉はまだお前を愛している。そんな青葉の一途さも俺は愛してやまない。だから… 今望むのは青葉の本当の幸せなんだよ 」
2人は目を合わせたまま動かない。
「 … 結婚するんだろ。俺に遠慮なんかするな 」
「 お前なんかに遠慮はしてない。青葉に今すぐ決めてもらおう 」
直後に背後からコトリと音がした。雄太と恭平が振り返ると同時にドアが開き、青葉がゆっくりと姿を見せた。やや青ざめた顔だが目はしっかりと光を湛えて2人の男たちを見つめている。
 3人は何も話さず、張り詰めた沈黙が場にゆっくり広がっていく。青葉は運命の神が天から降臨し、手に金の天秤を差し出すのが見えた。請われるままに受け取ると、神はその姿を消した。見えない天秤を手にしっかり抱いて青葉は決断の瞬間が来ていることを確信した。
 


 

 私たちは、みんな愚かな人間だ。でも、力の限り生きている。だから不器用でも、惹かれ合い愛し合える。それを教えてくれたのは、目の前にいるこの2人なのだ。それは愛しているとか好きだという言葉では語り切れない。真実とは見えない場所に隠れているのではない。空中にぽっかり浮いている。だから下ばかり向いて目を凝らす私たちには見えてこないんだ。
 どうして、もっと早くわからなかったのかしら。神様なんて、いつでも気まぐれで意地悪なんだ。

 恭平さんがコートの下に置いたバッグから黒い布の包みを取り出した。少しためらって開いた手の中に、私は懐かしく切り裂かれるような記憶を思い出して顔を覆った。
 あの日、横浜の海辺で無くしたはずの私のパンプスが光を受けて柔らかく輝いている。ピンクベージュの甘い色合いはあの瞬間以来忘れた事は一度もない。恭平さんはテーブルにそっと置いて私を見た。ああ、昔の恭平さんだ。私を愛して笑ってくれた恭平さんの顔が戻ってきた。待ち望んでいた瞬間なのに、私の胸は静かに目の前の光景を噛みしめている。
「 これを返しに来た。何度も捨てようとしたけど… 持っていれば青葉と繋がっていられると勝手に思ってたんだ。心底バカな男だよ、俺は 」
「 … あの後使いを行かせて探させたけど、ない筈だな。青葉、もう片方を持ってるよな。隠さなくていいよ 」
 私は頷いた。雄太さんは笑った。何の邪推もない、純粋な笑顔に私の五感は激しく呼応する。雄太さんとの繋がりが深まる度にその笑顔は私を癒して私の良心を責めた。そして私は何度もあなただけ愛すると誓っては揺れ続けた。
 でも、それも今日でお終いだ。

 雄太さんはデスクへ行って引き出しから小さな箱を取り出した。シルバーの光るジュエリーケース。開くと鮮やかなブルーサファイアに縁どられたダイヤのリングが現れた。雄太さんはケースをパンプスの横に置いた。
「 死んだ母さんの形見をリメイクした。悪いが寝ている間に指のサイズを測ったよ。プロポーズを受けてもらったら渡すつもりで持ち歩いてたんだ」
 
 雄太さんと恭平さんはお互いを見て軽く微笑んだ。そして私の方を見て、同時に手をスッと私に差し伸べた。


 こんな瞬間が来る事がわかっていたら、この場にふさわしい言葉を用意できたかもしれない。でも残念だけどそれを考える時間も気持ちもないまま私は足を前に進めた。

 私は、今から本当の愛を見つける。それは自分の気持ちに誠実に生きる事。それがこの二人の愛に報いる、唯一で最後のギフトになる。

 神様、どうぞ見ていて下さい。

 私の胸の前で金の天秤が静かに揺れ始めた。



 作者より 
 次回最終回です。どうぞ最後までお付き合い下さい。


 



 

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