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無題

   秋晴れはすぐに暮れてしまった。本来ならまだ働いている時間にも関わらずほとんど夜の街を歩いてるのと変わらない気分だった。
   午前中だけ働いたので代謝が上がっている。冷たい風はそれほど苦痛にはならない。チャリを転がしてモグラのように夜を掻いて行く。ちんたらとした歩みが好きだ。

   職場の後輩がYouTubeを始めると言っていた。APEXの実況で配信者として成り上がるつもりらしい。本人は「あくまでも趣味なんで」などと言うが、その目には労働への疲弊と嫌悪、そして名声への渇望がギラついている。
   瞳の奥にゆらゆらと揺れる無数の黒い人影が立ち並んでいる。
   地位や名誉を獲得せんと邁進し明日へ生き急ぐ者。比較競争に取り憑かれひたすらに知名度や何者かであるということに偏執する者。そこにはもはや法など無く、とにかく突出した者が勝者となり暴力的なまでの利益を貪る。そのために何を犠牲にしても構わないというやったもん勝ちの世界を生きる人々。そして、その向こうにはそういった血みどろのレースに参加しながらも乾いた諦観から不特定の大多数の一部として飲み込まれて行くことに甘んじつつそれら全体を外側から娯楽として消費しようとする無数の人々が蠢いている。
   笑ったり泣いたりと忙しなく、苦悶に身をよじる人影から目を背けるとこは出来なかった。

   久しぶりに会った祖父はこちらを一瞥し、またすぐにテレビに向き直った。もうずっとテレビを見る祖父の姿しか見ていない気がする。
   何層にも塗り重ねられた祖父の背中から白い湯気が立ち上っている。風呂上がりか。風呂上がりである。
   やがて白い靄は揺れる人影になっていく。
   自分自身を溺愛し思い出や傷といった置き去りにした過去にしがみつく者。好きなものだけが好き、嫌いなものだけが嫌い、優れているから良い、劣っているから悪い。とうとう固着して身動きすら取れなくなってしまう者。そこには掠れた悲鳴も無く、「これで良いのだ、何も間違っていない」と自分のこれまでを丸ごと肯定し、他者に揺るがされぬように心の奥底に堅く閉じ込められた在りし日の声たちが涙を乾かして眠っているように思えた。

   二極化していく人々の傍らでこそ、ゆっくりと少しずつ前に進もうとすることに意味があるように思えた。

   並木道沿いの市営公園のベンチに人影が、ぼやっとした白い光の中に派手な金髪の男の顔が宵闇に浮かんでいた。男の前には三脚のような器具が立ててあり、上部に取り付けられたスマートフォンと円環型の照明器具のそれによるものであろう。
   一人でベンチに腰掛けている男は一人でぶつぶつと何かを呟いている。配信者である。もしくは配信者などではないのかもしれない。もしくは誰しもが配信者なのかもしれない。
   ノロノロと通り過ぎていくチャリを彼は横目で確認しつつも何事もなく話し続けた。私はそんな彼をジロジロと見た。私は彼には、彼が並木道沿いの公園のベンチに、確かにそこにいるということを感じて欲しいと思った。だからジロジロと見たのである。
   スマートフォンの画面の中、その向こう側に彼は居場所を求めている。自分という存在の存在を許容するコミュニティを。許されているという存在の担保を求めている。どこにいても誰かと繋がることが出来る。どこにでも居場所はある。居場所はどこにもない。そんな日々が漫然と過ぎて行く。
   公園の隣には夜でも忙しない病院が、赤い光の点滅がひっきりなしに出たり入ったり。
   「お疲れ様で〜す」と、背後から彼の声が聞こえた。振り返ったところで彼はもう、どこかずっと遠くの光の中に消えて行くのだろう。

   駅前の繁華街に近づくとサラリーマンは早くも酔っ払い、各々の歩行はままならないまま肩を組んで歩いてるいる。大きい声で喋っている。世界と自分との境目が揺らめいて薄らいでいる。それは自分を世界の一部とする癖の反転だろう。満員電車の人混みを掻き分ける歩みがそのまま反映されているのだろう。社会という人混みの中に割り込み割り込みして今まで過ごしてきたのだ。そしてこれからも。
   いつまでもメガネの大学生はサイゼリヤでワインを飲む。若い男女はマクドナルドのテーブル席で一言も喋らない。お互いにスマートフォンを叩いている。着飾った肌ツヤたちはとてもお洒落な、とても脂っこい料理を食う。間接照明の薄暗い店内にも流行りのポップソングが染み込んでいる。それ以外の人々は全員が全員牛丼屋でやっつけの夕食である。味など無い。お互いにお互いの存在を無いものとして扱う。あたかもそれが作法であるかのように。時折笑いものにして、なるべく良い気持ちで帰路につく。今までも、そしてこれからも。

   ふと視線を感じ、見るとハリーポッターが立っていた。あの頃のハリーポッターである。最初の方と最後の方とのちょうど中間のあの頃のである。ハリーポッターは何故か少し悲しげな困ったような顔でこちらを見ていた。服装こそ結構カジュアルめのではあったがハリーポッターだった。なぜなら魔法の杖を持っていたからである。
   ハリーは今にも魔法を使おうというような予備動作のような動きを始めた。あの魔法を使おうとしているかのような。杖の先から何かが飛び出したりするようなあの魔法である。もしくは何かが光ったり、何かがひとりでに動き出したりするようなあの魔法かもしれない。
   とにかくハリーポッターが魔法を使うぞ。あのハリーポッターだぞ。稀代の天才魔法使い、数多の敵を凄まじい魔法の力で打ち倒し、学校で一番強いと言われている、あのハリーポッターが、魔法を、使うぞ。今まさに。

   翌日はいつも通り出勤したのだが、その次の日くらいから私は働くことの意味が分からなくなってしまった。定時に間に合うように早起き。忙しなく身支度を整えすぐに家を出る。通勤だけでも体力を消耗し、そこからさらに労働が始まる。帰って来ても飯を食って寝るだけである。ハリーポッターは魔法が使えるというのに。「あの日見たハリーポッターのように私にも魔法が使えたなら」と、そんなことばかりを考えてしまう。
   次の日、私はハリーポッターの杖を買った。インターネットには何でも売っている。次の日、私はハリーポッターのメガネみたいなメガネを買った。これで私も、と。インターネットを見た感じハリーポッターは普段は黒いマントみたいなのを羽織っているようだった。しかし、マントを羽織るだけで魔法が使えるようになれるとは考えにくかったのでマントは買わなかった。ハリーポッターのように魔法が使えるようになりたい。
   熱が出たと言って会社を休んだ。家族が病気だと言って会社を休んだ。ハリーポッターは会社を休んで魔法の練習とかをしているのだろうか。薄暗い部屋の中で杖の先に光が灯る瞬間を待っていた。

   「光った」という声を聞いて目を開けると布団の上だった。意識が立ち上がり始める。口の中が乾燥している。あの声は、私の声だ。私は寝ながらにして魔法の練習をするまでになっている。そのことを理解して行くにつれてまず恥ずかしさがあった。そして少しの誇らしさもあった。
   ほとんど寝巻きのまま外に出た。会社に行かなくなってからかなり経つ。最近は電話も掛かって来ない。
   アパートの外廊下には街路樹の枯葉が積もり、サンダルで踏みしめるパリパリという音が心地よく冬の到来を告げている。
   毎朝目が覚めると自然と体が動き出し、あの日ハリーポッターを見た隣町の繁華街へ足が向くようになっていた。
   寒風が骨身にしみる。チャリに跨り、なるべく日向を走った。今日こそはハリーポッターに会える。ハリーポッターに会って魔法を教えてもらう。ハリーポッターは優しいから魔法を教えてくれる。ハリーポッターに魔法を教われば魔法が使えるようになる。ハリーポッターに会いたい。そう思うと身体の芯がブルブルと震えた。
   ここ数日、全くと言っていいほど性欲が無い。今まで性的興奮を覚えていた何を見ても今は全く身体が反応しないのである。しかし、ただ一つ、ハリーポッターのことを考える時だけは、そうしている間だけは限りない多幸感に恍惚とし、ビリビリと感電したかのように全身を快楽が駆け巡る。ハリーポッターが私にとってかけがえのない存在となっていることは間違いなく、言ってしまえば私はハリーポッターに恋焦がれているのである。なんとも恥ずかしいような照れくさいような、ニヤニヤとしながらチャリを漕ぐ。これも日課のようになっている。私はこの上なく幸せだった。

   平日の午前中、繁華街は閑散としている。夜になると活発化するキャッチの群れも今はまだまばらで、ビルの影にしゃがんで煙草を吸ったりしている。舗装された車道からタイル張りの路地に入る。この先の十字路、カラオケ屋の一階ロビーの脇にハリーポッターは立っていた。この辺りから毎回胸の鼓動が高鳴り少し苦しくなってくる。今日こそはハリーポッターが、あの日のように、カジュアルめの服装で。今日こそは、と。
   ビルの谷間に風が吹く。暫時、時が止まったかのようだった。視線は一点に向かって釘付けになっている。カラオケ屋のロビーの自動ドアがゆっくりとゆっくりと開いていく。そして、中からハリーポッターが、朗らかな冬の高い空の下に陽光を浴びるように姿を現した。あの日と同じカジュアルめの服装、眼鏡をかけた、魔法使いの、私のハリーポッターが、カラオケ屋から出てきたのである。
   「あぁ……」と息が漏れる。
   ハリーポッターがそこにいる。手の届く距離にハリーポッターが。鼓動が早まり体温が上がっている。身体から湯気が立っている気さえする。
   ハリーポッターに声を掛けたい。ハリーポッターに魔法を。私はハリーポッターに魔法を教えてもらわねばならない。
   しかし、私の興奮はそれだけには留まらなかった。ハリーポッターと一緒にカラオケ屋から出てきたもう一人の人影。それは紛れもなくハーマイオニーだった。ハリーポッターとハーマイオニーがカラオケ屋から出てきたのである。
   私は大興奮に任せてチャリを乗り捨てその場で飛び跳ねて小躍りした。ハリーポッターにしか興奮しないと思っていたが、ハーマイオニーの方がもっと興奮した。エマ・ワトソン恐るべしである。ハーマイオニーがエマ・ワトソンなのは前から知っていた。エマ・ワトソン恐るべしである。
   駅の方へ歩いて行く二人の背中を急いで追いかけ、楽しそうに談笑する二人に後ろから声を掛けた。

   「すいません。あの、急にすいません」

   二人が振り返る。ハリーポッターとハーマイオニーだ。

   「はい」

   ハリーポッターが返事をしてくれた。

   「急にすいません。あの、私に魔法の使い方を……魔法の使い方っていうか、魔法使いのなり方? とかを教えてもらいたいんですけど……」

   「あー、ええと。魔法使い? なんすか? ちょっと分からないっすね」

   ハリーポッターもハーマイオニーも何故か困惑している。意味が分からないといった表情だが、意味が分からないのはこっちの方である。ハリーポッターなんだから魔法使いだろ。

   「私たちであってますか? 人違いとかじゃないですかね」

   ハーマイオニーはいかにもハーマイオニーといった清楚な喋り方だ。でも人違いとかじゃないだろ。ハーマイオニーなんだから。

   「いや、ちょっと待って。ハリーポッターとハーマイオニーなんだから魔法使いになる方法くらい知ってるでしょ? 秘密にしなくてもいいですよ。私全部気付いてますから。」

   早足で立ち去ろうとする二人を私は必死に呼び止めた。恐らく魔法使いのルールとして魔法使いではない私には自分たちが魔法使いであるということは秘密にしなければいけないのだと思う。しかし、私は彼らがハリーポッターとハーマイオニーであることを完全に見破っている。隠す必要は無い。

   「ハリー……ポッター……」

   二人は顔を見合せている。

   「えぇーっと、すいません。私たちは、ハリーポッターとハーマイオニーではないです。だから、あなたに魔法は教えられません。ごめんなさい。もういいですか? 」

   寒すぎる。演技が下手すぎるぞハーマイオニー。仮にも役者でしょうが。ん? エマ・ワトソンか。
   なんか段々と怒りのような感情が込み上げてきた。嘘をつくにしてももう少しまともな嘘がつけんのか。それでいてヤバい奴を見る冷たい視線だけはやたらリアルじゃねぇか。ヤバいを見る目くらい分かるよバカ野郎。

   「ヤバい奴を見る目くらい分かるよバカ野郎」

   心の中でBROTHERのビートたけしをやったら声に出ていた。いつの間にかハリーポッターとハーマイオニーはどこかへ行ってしまっていた。速すぎて目で追えなかった。繁華街に一人、寝巻きのまま立っている。気が付くと身体は酷く冷えていた。

   あなたたちが冬に「あぁ、訳もなく寂しい」「何故か物悲しい気持ちになるな」と感じるのは身体が冷えているからである。身体が冷えるということは原始的、本能的な感覚として死を予感させるのである。死と近接する季節、それが冬なのである。冬とは死のパロディである。これから私は30分歩いて家に帰る。あたかも何事も無かったかのように。それこそが我々の持つ強さだと思う。人類繁栄の原点である。何事にも動じないということ、これを心の内に掲げるのである。それらは揺らぎを持って人格に影響を及ぼす。その揺らぎに目を向ける。人間の持つグラデーションを見守る。そうしてあるがままにあることで我々は。

   意識が途切れた自覚があった。家に帰る途中、寒空の住宅街をフラフラと歩いている途中で確実に一度意識を失った。
   気が付くと。雲のようなフカフカの地面に寝転がっていた。上体を起こすと、辺り一面見渡す限りの真っ白いフカフカで、どこまでがフカフカの地面でどこからが空、もしくは壁や天井なのかも分からない真っ白な空間だった。寒くも暑くもない。不思議なほど居心地が良かった。
   フカフカの地面はどこまでもフカフカで、立ち上がって歩くのは難しそうだった。仕方ないので四つん這いで赤ん坊のようによちよちと進んだ。どこかに行く必要があると感じていた。
   結構な全身運動だが一向に疲れない。次第にコツを掴んでポヨンポヨンと飛び跳ねながら進む方法を編み出した。とても楽しい。どこか遠くへ向けてどんどんと進む。
   向こうの方のフカフカの窪みに人影が見えた。ポヨンポヨンと近付く。それは、職場の後輩だった。スヤスヤと眠っている。安らかな寝顔なので起こしてはまずいと思い静かにその場を離れた。すると、向こうからよちよちと祖父が近付いて来た。隣には金髪の若い男も一緒である。私はポヨンポヨン法を二人に教えた。祖父と金髪の若い男はポヨンポヨンと楽しそうに飛び跳ねた。
   フカフカの地面が揺れる。
   後ろから後輩がよちよちと近付いて来た。起こしてしまったらしい。私は後輩にもポヨンポヨン法を伝授した。四人でポヨンポヨンと飛び跳ねて踊った。どこかでハリーポッターとハーマイオニーの声が聞こえる。ハリーポッターとハーマイオニーもここに来てポヨンポヨンと飛び跳ねよう。みんなで踊ろう。
   人生は祭りだ、共に生きよう。
   フカフカの地面が揺れる。

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