ボーイ・ミーツ・ガール
春の風が無神経に吹き付けて、傷心の俺を嘲笑った。都会のアスファルトは今日も硬い凹凸を見せびらかしてくる。わざとらしい街路樹もいやらしい高層ビル群も、何もかもが鬱陶しい。俺の心は見て分かるほどにささくれだっている。どうしてこんなことになったのか。俺は現在から過去を振り返ることにした。
俺が最初に思い出したのは、現在よりも数秒前の出来事だった。春の風が無神経に吹き付けて、傷心の俺を嘲笑った。突風に目線を下げると都会のアスファルトが硬い凹凸を見せびらかしてくる。整然と立ち並ぶ街路樹のわざとらしさ。所狭しと繁茂した高層ビル群のいやらしさ。俺の心はささくれだって、目に映る全ての物事に苛立った。
次に思い出したのは、今思い出したことを思い出す作業を行うよりも数秒前の出来事だった。それはつまり、まず最初に春風が吹いて髪型がくしゃくしゃに乱され、目が乾燥するので目線を伏せるとアスファルトが目に入り、長年履き慣らした靴の底は薄くすり減り、アスファルトの凹凸の硬さ、そして街路樹の整列や高層ビル群の乱立など、目に入る景色全てに腹が立つ、ささくれだった心象風景だった。それらを思い出すのにも数秒を要した。
俺は現在までに思い出した過去よりもより過去の出来事をを思い出そうと考えた。思い出したのは、先程まで思い出していた出来事を思い出す作業を行うより前に行っていた過去を思い出す作業を行うより前に行っていた出来事だった。それは、日没後のビル街にいる俺が何かに怒っている様子だった。強い風が吹いていたようで、季節は春だった。俺の靴はボロく靴底がすり減っていた。周囲の街路樹やビル群に対して何か強い怒りのような感情を抱いていた。しかし、それ以上鮮明にその時の心象を思い出すことはできなかった。それは現在よりも過去にいる俺を現在の俺が外側から眺めているような平坦な記憶だった。
俺は過去を思い出そうとしている。どれほど過去の出来事かは分からないが、とにかくぼんやりとした景色ばかりを思い出している。風が吹いている。春の日暮れのビル街である。そこにはボロボロの靴を履いた俺が立っている。俺の周りには街路樹が並んでいる。ビルも立ち並んでいる。ビル街だから当たり前かもしれない。俺は何かしらの感情を抱いている。しかし、それ自体を思い出すことは出来ず、何かしらの感情を抱いていたという過去の出来事だけが現在の俺の脳内を巡回している。
俺は何かをしている。何かを考えているという方が正しいだろう。現実に何か行動を起こしているとは考えにくい。俺は俺の脳内で思考し、何か風景のようなものを思い出そうとしているらしい。思い出そうとしている風景がどんな風景なのか、思い出そうとしてみる。俺はどこかに立っていたはずである。そこには俺がいて俺は衣服を着ていて、俺は何かを見ていたはずである。その時何かが起こったのかもしれない。その時俺は何かを見たのかもしれない。何を思い出そうとしていたかを思い出そうとする行為は霧を掴むような感覚で、思い出そうとしている過去のある瞬間に関する具体的なイメージは今となっては奥へ引っ込んでしまい、何かを思い出そうとする時のもどかしい感触だけが脳内を満たしている。
何を思い出そうとしていたのか、とうとうヒントらしきヒントやキーワードのようなものすら思い出せなくなってしまった。俺は何をしようとしているのだろうか。
突然、肩を叩かれた。振り返ると若い女が不安げな顔でこちらを見ている。
「大丈夫ですか? 」
女は俺の様子を心配しているようだ。
「苦しそうな顔でずーっとそこに居るから、心配で声かけちゃいました。ほんとに大丈夫ですか? 」
俺は女の目を見た。女の目には夜のビル街に立つ俺の姿が映っている。俺は声が出ない。何か返事をした方が良いのだろう。理性のようなものが働いて、返事をせず女の問いかけを無視し続けていることに対する嫌悪感のような感情が沸き起こっている。
「ええ、大丈夫です」
俺の声が聞こえた。女の表情が明るくなる。俺を取り囲む背の高いビルが瞬きするようにキラキラと煌めく。街路樹の新芽が青々と春風に揺れた。