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かなり長い廊下

かなり長い廊下がある。そこにいる観客の一人一人はみな受付で金を払って入場した者たちである。しかしそれぞれが支払った入場料はまちまちである。なぜならここは支払った入場料に応じて廊下を奥まで進むことができる決まりになっているからである。多額の入場料を支払えばより奥まで廊下を進むことができるのだがエリッツ・フィクセンドリはその時たまたま財布の小銭入れに入っていた数枚の硬貨のみを入場料として支払っていたので他の観客に比べてもかなり手前までしか進めず他の観客の背中ばかりを眺めて侘しい気持ちで下唇を噛んだ。

廊下の先は長い。向こうからショートカットの女性が戻ってきた。田所ハル美である。田所ハル美はかなり手前で立ち止まっているエリッツを見つけて声をかけた。

「どうしたの? エリッツ。廊下の先を見たくないの?」

田所ハル美は深刻そうな声色を作ってはいるが口元を見ると口角が上がりエリッツを見下している感じが滲み出ていた。

「ハル美、そんなことを言うためにわざわざ戻ってきたのか? 僕を見下すために」

「違うわよ。私はあなたと一緒に歩いてるつもりだったの。なのに、気が付いたらあなたは随分手前で立ち止まっていたの。あなたってそんなにケチな人だった?」

「うるさいよ。君は一体いくら払ったんだ?」

「一番小さい紙幣を一枚くらい」

「それで? 君は僕よりも少しだけ先に進んで僕が見るこのできなかった何かを見たのかい?」

「ええ、もちろん」

「本当に?」

「えぇまあね。私よりも先に進んだ人が教えてくれたのよ。この先にはとってもいいモノがあるって」

「いいモノって?」

「そんなのお金をケチったあなたには教えないわ」

するとタキシードを着た腰の曲がった小柄な男がカサカサと駆け寄ってきてエリッツ・フィクセンドリの傍らに立ち止まった。見ると蓋に丸い穴の開いた箱を手に持っている。そこに金を入れろということらしい。男は上目遣いでエリッツの顔を見つめている。エリッツはハル美と顔を見合わせてから財布を取り出した。そして仕方がないといった表情で一番小さい紙幣を畳んで箱に入れた。二人は少しだけ前に進んだ。

そこには大勢の人がいた。廊下はぎゅうぎゅう詰めになっていてエリッツ・フィクセンドリが最初に支払った数枚の硬貨の分だけ前に出ようとするのにも一苦労するほどだった。後ろから田所ハル美が声をかけた。

「ちょっとエリッツ」

エリッツ・フィクセンドリは今度は勝ち誇ったような顔で振り返った。

「どうしたんだい、ハル美」

「どうしたって、あなた。自分がやってることを分かってる? なんでそんなにはしたないマネするの」

「はしたないだって? 僕は自分が払った金の分だけ前に進んだだけだ。それがここの決まりだから。それだけだよ」

「本当にデリカシーのない……もう……」

田所ハル美はわざとらしくため息をついた。周りにいた人々は二人の会話を聞いていた。そして一人の中年の女性が二人の会話に割り込んだ。

「すいません。お話が聞こえていたんですけどね……彼女の言うことは間違ってないわよ。あなた……エリッツさん? あなたはこちらの彼女と連れ合いなんでしょ? だったらあなたもここまで戻って同じ位置につくべきよ」

「そうですよねぇ。そうするのが当たり前だと思います」

ハル美はすぐに加勢した。

「えぇそうよ、あなたは間違ってないわ」

「ねぇエリッツ? 悪いことは言わないわ。私の隣にきて? あなたと私との間にこんな距離があるべきではないと思わない?」

今度はエリッツ・フィクセンドリがため息をついた。

「いいかい? 僕と君との間には確かに少しの距離がある。でもそれはこの場所の決まりに従った結果だ。それはマナーとかモラルとかそういう感情論とは切り離して考えるべきだ。だいたい君と僕とが見ている景色なんてさして変わらないんだ。この距離についてどうこう言うのはナンセンスだよ」

田所ハル美と中年の女性の顔が見る見るうちに紅潮していくのが分かった。ハル美と中年女性は寄ってたかってエリッツ・フィクセンドリを罵った。何が彼女たちをそうまでさせているのか前に立つエリッツには分からなかった。

廊下の先から若い男が歩いてきた。男の鼻息は荒い。何かに興奮しているようだった。男は群衆の先頭に立つエリッツ・フィクセンドリを見つけると自慢げに話し始めた。

「やぁ、君はこの先に何があるのか知りたいかい? 良かったら僕が教えてあげるよ」

「本当に?」

「あぁ、本当だ。……この先には、裸の女が何人もいてみんなで踊ってるんだ。すごいだろ? 夢みたいな光景だ」

「なに? それは凄い。是非とも行ってみたい。君はいくら支払った?」

「中くらいの紙幣を三枚だ。……でも、それだけの価値はあるよ僕が保証する」

「よし分かったぞ……」

エリッツ・フィクセンドリが財布を取り出そうとしていると田所ハル美が声を上げた。

「エリッツ、騙されないで? その人は嘘つきよ」

「君、なんでそんなことを言うんだ。僕は嘘なんか……」

「私、聞いたのよこの先に何があるのか。この先に裸の女がいるなんて言ってなかったわ。その人は嘘をついてる」

エリッツ・フィクセンドリは二人に挟まれる格好できょろきょろと二人を見比べた。

「分かったよハル美、裸の女は見に行かない。でも君は誰からこの先にあるものを教わったのかを言わないといけないんじゃないか? そしてそこに何があるのかも。……それをせずにこの人を嘘つき呼ばわりするのは間違ってるよ」

「そうね、分かったわ……。……私、ユージュリス・カルビエリから話を聞いたの」

ユージュリス・カルビエリ。その名前を聞いてエリッツ・フィクセンドリと若い男、そして周りで事の成り行きに聞き耳を立てていた人々は驚いた。ユージュリス・カルビエリと言えば言わずと知れた大金持ちである。彼の会社の食品を口にしたことのない人間など恐らくこの国にはいないとさえ思えるほどの。エリッツは今朝食べたコーンフレークの箱に描かれたカルビエリの似顔絵を思い出した。そしてその場にいた全員が抱いていた疑問をエリッツが代表して田所ハル美に投げかけた。

「ハル美、それは本当に本当なのか? 本当にユージュリス・カルビエリがこの廊下にいて、君にだけこの先に何があるかを教えたってのか?」

田所ハル美は落ち着いた様子で応えた。

「もちろんよ。ユージュリス・カルビエリの顔を見間違えるはずがないのはあなたも分かっているでしょ?」

それはそうだった。

「廊下を歩き始めてすぐに前を歩く老人に見覚えがあることに気が付いたの。急いで追いかけた。私が進める位置より先に行ってしまう前にね。それでこっそり声をかけたの。案の定ユージュリス・カルビエリ、その人だったわ。それで、なんでここにいるの? って聞いたら彼が教えてくれたの」

田所ハル美はそこで一度言葉を区切って間を置いた。その間はいかにも凄いことを言う前のそれだったのでエリッツ・フィクセンドリたちは息を飲まざるを得なかった。

「この廊下の先には……。突き当たりに扉があるの。そしてその扉の向こうは……。光り輝く超豪華な寝室になっているんですって。彼はそう言ってたわ。ここは、最初に突き当たりに辿り着いた人だけが泊まれる、ホテルなんですって」

田所ハル美が言うにはユージュリス・カルビエリは以前にもここに来たことがありその時に大枚をはたいて突き当たりにまで行きその部屋で豪華なサービスを受けながら一泊したらしい。ハル美の目は嘘をついているようには見えなかったし大富豪のユージュリス・カルビエリが豪華と謳うサービスには興味をそそられた。しかしそれと同時にユージュリス・カルビエリほどの金持ちがやっとの思いで辿り着いたのだとすれば……。エリッツ・フィクセンドリを始めその場にいたほとんどの人々は途方もない金額を想像して無力感に襲われていた。

ところで、と田所ハル美の隣の中年の女性が声をあげた。

「ところで、あんた。この先に裸の女がいるだなんて言ってたけど、なんでそんな嘘ついたのさ」

全員が若い男の方を見る。男は俯いて舌打ちすると眉間に皺を寄せたまま人ごみを掻き分けて入り口の方へ戻り始めた。

「僕の方が信じられないならそれでもいいさ。せっかく教えてやったってのに。みんなそっちの女を信じるんだろ? ユージュリス・カルビエリ? そんな大物がこんなところにいるわけ……。」

何人かは若い男に続いて廊下を引き返した。どちらの話が本当だろうと結局そんなに金は払いたくない。それに少しは面白いものが見れたし、といった空気を背負っていた。

なるほど、という嗄れた声がしてまばらになった人ごみの中から白髪に白髭の老人が現れた。

「高級なホテルに豪華なサービスか。死ぬまでに一度は体験してみたいもんだな」

老人は誰に言うでもなくそう呟くと財布を取り出した。するとどこからともなく腰の曲がった小さな男が駆け寄ってきて老人に箱を差し出した。老人が財布からそれなりに分厚い札束を取り出したので人々はざわついた。田所ハル美の隣にいた中年の女性はまぁ、と声を漏らして目を丸くした。札束は箱にすっぽりと収まり老人はゆっくりと歩き始めた。エリッツ・フィクセンドリや田所ハル美らはただただ老人を見送ることしかできなかった。

























老人はほとんど全財産をはたき、人生最後の大仕事とばかりに歩き続けた。その廊下はかなり長く、老人は歩いている間に寿命が尽きてしまうのではないかと心配した。





















そのかなり廊下は長く、老人の靴が乱雑に脱ぎ捨てられていた。








近くには老人が羽織っていたジャケットやネクタイが落ちている。










































老人は力無くその場に倒れ込んだ。もう自分の身体を支えるだけの力は残っていなかった。老人はとうとう突き当たりに辿り着けなかったことを悔やんでいた。しかし老人が支払った金額で進める距離があと数歩であったことを老人は知らなかった。それは唯一の救いだった。

その廊下はかなり長く、老人の全財産やエリッツ・フィクセンドリ、田所ハル美、中年の女性や若い男など人々の有り金をすべて箱に収めたとしても突き当たりには到底辿り着くことはできなかった。その廊下の先は、



































































食べ放題のカレーバイキングになっていた。テーブルには寸胴鍋が並べられゴロゴロ野菜の欧風カレーなどが湯気を立ち上らせていた。

ユージュリス・カルビエリはもぐもぐとカレーを頬張り満足気な表情で次回の開催日を係員に尋ねたりしていた。

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