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ガツンという衝撃

ガツンという衝撃があり、見ると十二分に焼けたパンだった。反射的に頭に手を当てると頭皮に鈍い痛みがある。地面に転がったパンは小ぶりなクッペのようだった。文字通り小麦色の体表から細かい破片や粉を散らしている。アスファルトに直でパンが転がっている様は存外滑稽だった。
どこから降ってきたのか、気になって背後を見上げる。まず薄曇りの秋の空を見上げてみたものの自分が馬鹿らしく乾いた笑いが口を衝いた。背後の雑居ビルの2階にパン屋の気配があった。壁面に設置された看板には「2F フカブンベーカリー」とある。通りに面した窓が少し開いている、窓側にもパンを陳列する棚が並べられている、今まさにもう1つ棚からこぼれ落ちたクッペが窓の隙間から路上へ降り注いでいるなど、小さく丸いフランスパンが路上を行く私の頭に直撃するのに過不足ないだけの情報をざっと見て取ることができた。クッペはビル風に煽られて落下進路を急速に変え、凄まじいスピードで私の額に激突しアスファルトに転がった。額に手を当てながらゆっくりと目を開けると、2つのクッペは寄り添うように並んで佇んでいた。
クッペを1つずつ両手に持って雑居ビルの細く急な階段を上った。明かりの漏れる出入口のガラス戸には木製の看板が掛けられていて、漢字で大きく不可分とあり、その下に小さくbakeryとある。洒落たデザインに腹が立った。
店内は閑散として人気がない。焼きたてのパンの香ばしい匂いだけが左右に細長い店内を満たしている。店の最奥にはレジカウンターだけがあり、厨房のようなスペースは見受けられなかった。レジ前にエプロン姿の若い女が1人、髪色は明るいのだが化粧っ気のない質素な顔立ちでこちらを見つめている。よほど客が来ないのか、エプロンのポケットからは文庫本の表紙がはみ出している。私の入店に驚いて急いで閉じて仕舞ったのだろうか、スピンが外に出てしまっていた。少し申し訳なくなった。
彼女が言うには、通りを少し行った所に路面店のフカブンベーカリーの本店がありパン屋としてはそちらがメインで厨房もそちらにあるらしかった。店主があまりにもパンを焼くので陳列するスペースが無くなり、サブの売り場として用意されたのがこの店なのだと言う。しかし、こぢんまりとした雑居ビルの2階、客足はほとんど無く、今日はあなたで3人目ですよ、と彼女は微笑んだ。
いつの間にかレジの奥に引っ込んで椅子に腰掛けた女はごゆっくりどうぞと言って文庫本を広げた。私は入口横に用意された乳白色のトレーに持っていたクッペを置いてそのまま店内をゆっくりと歩いた。パンを物色するフリをして窓際まで行き、こっそりと窓を閉めた。窓際の棚には溢れんばかりに山積みのフランスパンが並べられている。少しの振動でも山肌が崩れるのだろう。いくつかのクッペやブールは長方形の平たい籠からこぼれてしまっていた。私はクッペを3つトレーに乗せて路面までこぼれ落ちた2つを紛れさせた。1回に5つのフランスパンを買う男を彼女は不思議がるだろうか。自然とそんなことを思っていた。
シンプルに美味そうだったベーコンエピと合わせて6つのパンを乗せたトレーを見た彼女は表情を変えずに言った。「入って来た時に持ってたパンってどうしました?」


「あれ? うちのパン持って入って来ませんでした?」

「あぁ、えぇと」

「向こうで買ったやつじゃないんですか? うちのフランスパン、クープが深いからすぐ分かるんですよ」

「そうなんですか……。」

「クッペ5個もありますけど、2つは買ったやつじゃないの? このままだとクッペ5つでお会計になっちゃいますよ」

「いえ……このままで大丈夫です。その……。大丈夫なんです、確かにこのクッペはここのお店のクッペなんですけど……」

彼女は不思議そうにこちらを見ている。しかし、その眼差しに私を不審がっているような様子はなく、純粋に訳を知りたがっているような、真っ直ぐで秋晴れのような透き通った瞳だった。私は視線を逸らすことが出来なくなっていた。どこまでも真っ直ぐで疑心の曇りのない視線に釘付けにされていた。淡褐色に輝く虹彩、ツヤのある長い睫毛、整った目鼻立ちやキメ細く潤った肌を見ていた。しばらくの間そうしていると仰月形のハリのある唇が動いた。

「大丈夫?」

彼女は微笑んでいる。私は彼女を殺すことにした。
パン屋の中央に大きな老木がそびえ立っていた。樹木の種類に明るくないので、この節榑立つ大樹がなんという木なのかは分からない。2階の床を貫通して天井まで届いている。そして天井をも貫いて上の階まで幹を伸ばしている。
秋の日暮れを報せる冷たい風が吹いて森がざわめいた。ごつごつとした地面に足元がおぼつかない。私は森を歩いていた。
湿り気を帯びたブルーシートを引きずっている。包まれた硬く柔らかい感触は人間によく似ている。どこかでカラスが鳴いている。晩秋の寒さを感じながらも額には汗が滲んでいた。
酷く焦っているような気がする。鼓動が速いのは気のせいではないはずである。私は何かから逃げているのだろうか。追いかけてくるのは一体何者なのだろうか。視界にはまたしても節榑の老木。もしかすると同じ所をぐるぐると回っているのかも知れない。追跡者も私を追いかけてぐるぐると回っている。であるなら、と私は考える。そうであるなら、私は歩みを止めなければいい。このまま前に進み続ければ、たとえどこにも行けなくても追跡者に追いつかれることはない。追跡者が私を追うのを止めるその時まで、私は前進し続けるのである。そう考えると気分は楽になった。心做しかブルーシートを引く腕や肩の痛みも和らいだ。物悲しかった夕暮れも消え失せ、森には夜の帳が降りていた。もはや視界は無いに等しい。石ころや木の根に何度も躓いた。転倒した拍子にブルーシートを括る紐が解けそうになったりした。慌てて何重にも縛り付ける。夜の森に麻紐の擦れる音が響いた。

唐突に足を水辺に踏み入れた。履き古した靴のボロボロの縫い目から冷え切った湿り気が染み入って来て靴下を大いに濡らした。足の指先を刺すような水の冷たさに薄れかかっていた意識が呼び戻された。嗅覚や聴覚が蘇り、自分が渓流を渡ろうとしていることに気がついた。どうやら周回している訳ではないらしい。思い切ってざぶざぶと前進する。膝まで水に浸かったが、それ以上深くなる気配は無かった。両足に力を込めて水を掻き分けて進む。しかし、先ほどまで降っていた雨のせいか、思いのほかの水量に引きずっているブルーシートがどんどんと下流へ流れて行ってしまう。いっその事、手を離してしまえばどれだけ楽になるだろうか。こんなもの、ひとつやふたつ川に流れたところで、増水した川の勢いにもみくちゃになって、私の背負った何か後暗いもの全てがうやむやになって消え去るのではないか。そんなことを思うと全身に込めていた力がふっと抜ける感覚があった。全てを投げ出してしまうことができるなら、と水流に足を取られ上体がふらついた。
その時、ガツンという衝撃があり再び目が覚めた。どうやら川べりに突き出した樹木の枝に頭をぶつけたらしい。懐かしい痛みだった。このままでは、と流されそうになったブルーシートと麻紐を再び強く握った。私は前に進まなければならない。私は罪を背負っている。投げ出すことも逃げ出すこともあってはならないはずだ。川底の砂利を蹴って勇ましく1歩を踏み出した。
しかし、踏み出した右足は川底を踏まなかった。私は深みにはまりバランスを崩した。全身が凍てつく水流に飲み込まれる。必死の思いで水を掻きブルーシートに取りすがった。あとはなすがまま、どうすることも出来ずに流された。漆黒のうねりに弄ばれながら自分が気を失うのが分かった。


気が付くと私には意識があった。目を開けたという感覚は無い。ただ、気が付いた時には外の世界を知覚していた。私は何やらゴロゴロとした岩山の上に寝そべっている。居心地が悪く体勢を変えたかった。しかし、どうにも手足がままならない。体重移動も思ったようにできない。
私は、パンになっていた。
グラりと視界が揺れて岩山を転がり落ちる。どんどん転がる。岩肌にぶつかる。回転する視界には小麦色の岩山が遠のいて行くのが見える。不意に身体が軽くなり、全身を風が包み込んだ。どうやら外にいるようだ。私は落下する。強く乾いた風に包まれて、見る見るうちに落下して行く。最後に感じたのは、ガツンという衝撃。アスファルトに転がって私は息を引き取った。
そこには十二分に焼けたパンが、真っ二つに割れて転がっていた。

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