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大丈夫だよ。

仕事が終わって外に出ると一面が濃霧に覆われていた。街灯の光が周りにぼんやり滲んでいるさまを眺めているうちに、今日は喫茶店に寄ってから帰ろうという気持ちになった。

通勤用の鞄には一昨日発売日に購入した村上春樹の短編集が入っている。鞄は就職祝に姉が贈ってくれたもので、一年と少しを過ぎすっかり私に馴染んでいる。
お客さんが少なく店内が静かならばゆっくり読書をすると決め、のんびりした運転で向かう。
そこの喫茶店はよく行くつもりでいたけれど、考えてみれば今回行くのは1ヶ月ぶりだ。
友人との同居を終えてから初めて行く。何度も行きたいと思いつつ誰かに遭遇したくない思いもあって行きそこねていた。好きな喫茶店は安易に人に教えるものではない。

喫茶店に着くと先客はカウンターに一人、時たま店主と言葉を交わしている。お客さんの嗜好か、いつもはJAZZが流れる店内に珍しくクラシックが流れている。
今日のケーキはバナナシフォン。まだ食べたことのない味だったので、じゃあそれをひとつと、合いそうな飲み物をひとつ。んー紅茶か薄めのコーヒーかな。それならクインマリーで。

昔は苦手だと思っていた村上春樹も最近は昔の短編なら読めるようになっていた。最新作はどうだろうかと思いながらページを繰る。もしかして私は村上春樹が苦手ではないのかもしれない。むしろ言っていることがよく理解できる気さえする。
ここ一ヶ月を経たからかもしれない。様々な夢の旅に出た。ただ正面に向かう宇宙を思い出す。星星が駆け回り、ささやく。大丈夫だよ。わたしたちはここにいるよ。本当はずっと会いたかった。会えなくてもきっと必ずまた会うから。だから安心してね。星星は私と会話した。私も好きだよ。たとえ300年前に滅んでいたとしても。あなたたちが今も存在しているかはわからないけど、それでも時を超えて会えているのだから。

この小旅行はまた別の話。ほかの機会で話したい話だ。

特別上手なわけでもないシフォンケーキを添えてあるフォークで無造作に崩す。この素朴な味がすきだ。店主の人柄をそのまま表しているような味がする。

気がつくとここへ来て一時間はゆうに超えている。お客さんは帰った。クラシックからJAZZに切り替わる。
ふと気になって店主に話しかける。
「チャーリーパーカーの曲はありますか」
あるよ。と短く返事がありしばらくしてBGMが切り替わる。古い音源しかなかったんだけど。ふーんボサ・ノヴァが流行るよりもまえに死んだチャーリーパーカー。知らない人だけど、短編集を読んで知った気になって聴く。

熱心に読んでるとあっという間に半分を超えてしまった。大変だ。まだ楽しみたいのに。

一気に読み終えてしまわないよう慌てて閉じる。追加で注文したウィンナーアーモンドをちょうど飲み終える頃だ。

外に出ると霧は一層濃くなり、仄暗い外が幻想的に見える。大丈夫。星星は見えないけれどそこに確かにあるのだから。

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