森越一成という人間について(上)
2021年2月10日。晴れ。
薄い雲が途切れ途切れ繋がっている。とても豊かな一日の昼下がりに、noteに手をつける。
今日は朝からコーチングのメンターからのFBを受けて、一件コーチングをして、近くのなか卯で昼食を食べて、少し汚くなった部屋を掃除して、自己肯定感が上がっている。いい日だ。
そんな中で今日から書いていきたいのは、森越一成という人間について。
なんで書きたいと思ったのかというと、
・自分のありのままを場にそのまま出したらどうなるのかという実験をしたかったから。
・自分の届けるコーチングでは、クライアントさんにありのままで話してほしい。それを達成するために、自分のありのままを話した方が話しやすいと思ったから。
生まれてから、今に至るまで、どんな人生を送ってきて、そこから何を感じたのか、等身大で書いていきます。
1.この世界に生まれて
1994年12月16日17時24分。この世界に生まれた。場所は静岡県藤枝市。体重は2865グラム。大きいとは言えない。少しひ弱な体だった。
体は決して強いとは言えなくて、色々な欠点を抱えていた。アトピー、食物アレルギー、喘息。食物アレルギーに至っては、卵、乳製品、サバ、そば、ピーナッツ、アーモンド、金平糖などなど数えればキリがないほど。
あとアトピーがすごく酷くて、自分を掻かないように手袋をしていた。
そんな社会から見られたら欠点というべきものを人より多く持っていたから、小さい時はとてもひ弱だった。お母さんの影に隠れて、お姉ちゃんにはいいように扱われて。いつも心配そうな顔をしていた。
ただこの時期に色々な所に連れて行ってもらった。
あんまり覚えてないけど、ディズニーランドにはほとんど年に1回行っていた。キャンプにも行った。ヒーローショーも行った。未だにホームビデオを見ると子供の時にこんなに色々な場所に連れて行ってもらっていたのかと驚く。人間の好奇心は2歳までに形成されると言うけど、この時に自分の知的好奇心は形成されたのかもしれない。
ちなみに生まれてからは、アパートで暮らしていた。
だから遊び友達には困らなかった。幼稚園に入る前から、アパートの友達と遊んでいた。
幼稚園の年少の歳になった。
アトピーとかアレルギーの関係で、年少は幼稚園に通わなかった。その代わりに体を強くするために地元の体操教室に通った。そこでは学年ごちゃまぜで、いろんな運動をした。縄跳び、跳び箱、走る、フラフープ、マット運動。はじめて競争社会に放り込まれた。「負けたくない」という意志が芽生えた。そして年中になるころには、上の学年にも負けないくらいの運動神経を身につけた。全然覚えていないけど、少し誇らしかったような気がする。
そして丁度そのころ、幼稚園に通い始めた。
最初は不安だった。多分誰も知り合いがいない檻に放り込まれるような感覚だったと思う。
でもそんな不安は最初だけで、徐々に友達ができて、いろんな遊びを覚えた。特に好きなのは、泥団子作りで、友達と一緒に金ピカに光る泥団子を作ろうと意気込んで、さら粉をかけていた。誰にも見つからないような場所に隠すのだけど、たまになくなっていたり、崩れていたりして、その時は世界の終わりだと思った。
あとは全然覚えていないのだけど、どうやら「チューチュー団」という組織に所属していたらしい。その名の通り色々な人にチューをしにいく軍団。これは友達が言っていただけだから、事実は定かではないが、もし被害者がいたのなら、この場を借りて謝りたい。申し訳ございませんでした。
そして体操教室で鍛えた運動神経の良さは、ここでも役にたった。リレーではアンカーを任されて、必死に走っているのが、こちら。
この時は誰よりも速く走りたいと思っていたし、誰よりも速く走れると思っていた。
そんなこんなで、自信がなかったところから、運動や人間関係の構築で徐々に自信をつけて行ったのが幼稚園までのダイジェスト。
2.家族というメンバー紹介
そうそう、ここら辺で自分の家族構成も紹介したい。
家族構成は父、母、姉。姉は3歳年上。
父は普通の会社員で、若い時はとてもアクティブだった。
特にマラソンが好きで、100キロマラソンとかも出ていた。母親とはテニスを通じて出会ったらしい。キャンプとかも好きで、自分が小さい時に色々なところに連れて行ってもらった。
ただ自分が小学校高学年くらいになると、そこまでアクティブではなくなったような気がする。その代わりと言ってはなんだが、小うるさくなっていた。よく電気のつけっぱなしとか、水の出しっぱなしとか、細かいところを見つけては、すぐに怒ってきて、すごい監視をされているような気がして、窮屈だった。もっとそんな細かいところじゃなくて、森越一成という一人の人間を見てよと思っていた。
そんな父親が嫌いだったので、こうはなりたくないなと思って、反面教師みたいにして、育ってきたというのが実のところ。
対して母親は自分の理想みたいな存在だった。
美人だけど、それを鼻にかけないで、どんな人とも明るく笑顔で接する。
自分の話も、いつも楽しそうに聞いてくれて、今日はどんな話をして喜ばせてやろうと考えていた。
姉は、自分が小さい時は、とても強いお姉ちゃんだった。
弱い弟を守らなきゃと思っていたのかわからないけど、すごく強くて、頼もしくて、うるさかった。
僕が大きくなるにつれて、姉は徐々に大人しくなっていって、立場が逆転した。姉が勉強している最中に邪魔をしたりと迷惑をかけたなあ。
とこんなメンバーで育ってきたと紹介をしておこう。
3.小学校時代
小学校に入学した。
小学校に入学した時には、もう明るくて、うるさい森越一成ができ上がっていた。楽しいことが大好きで、負けず嫌い。何をやるにしても負けたくなくて、国語の音読は宿題の箇所を100回音読したりして、学校の先生を驚かせた。
そして漢字ノートは誰にも負けたくなくて、自分より多くやってくる子の漢字ノートを破いたりした。今思うとなんでそんなことをしたのかわからない。とりあえず負けるのが嫌だった。目立ちたかった。
目立てる役割があればなんでもやった。
学級委員。運動会の選抜リレーの選手。応援団。音楽会の大太鼓。生徒会。生徒集会の司会。
なんでも常に全力。だから運動でも、学業でもそれなりに成果がでた。
その中でも、人を笑わせることが好きだった。
小学校4年生の時に、みんなの前でコントをした。それが馬鹿受けして、自分は天才だと思った。最初はトリプルボーイズという3人組だったのが、メンバーを増やして、シックスボーイズに改名をして、授業参観でショートコントを披露した。
そこでみんなが笑ってくれるのが、何よりも嬉しかった。
将来の夢はお笑い芸人だったし、卒業アルバムには、友達から「お前はおもろい!芸人になるのを楽しみにしているね」と多数コメントを寄せられた。
誰よりも面白くなりたかったし、誰よりも面白くなれると思っていた。
あとは自分にとって小学校時代に大きな影響を与えたものは、犬を飼ったこと。最初はダックスフンドとか柴犬を飼いたかったのだけど、なぜかお父さんが、チワワがいいと言い出して、チワワを飼うことになった。
そのチワワにはミントと名付けた。
飼う前は他の犬種がいいとか思っていたけど、飼い始めるととにかく可愛かった。もう溺愛した。溺愛しすぎて、歌を作った。それではここで一曲、愛犬への愛を綴った歌「アイラブミント」をどうぞ。
ジャンジャン〜
ジャジャンジャーン
ジャンジャン
ジャジャンジャーン
ミントは毎日おめめがくりくりしていて
耳がピンとたって
いつもしっぽ大きくふっている
そんないろんな仕草が好きさ〜
だからだから
これからも永遠に愛し続ける
怒られても(コラ:合いの手お姉ちゃん)へこたれない強さで〜
ミントミントアイラブミント
ミントミントアイラブミント
これまで以上にアイラブアイラブ〜ジャン!!
こんな感じで愛犬という家族が一人増えて、お笑い芸人という夢があって、勉強も運動も基本的に順風満帆でという小学校時代を過ごした。
4.中学校時代
そして中学校生活が始まった。
中学校は、自分が所属していた小学校ともう一つの小学校が合体してできたようなもの。自分の所属していた小学校出身が3分の1くらいで少し少数派だったので、少し警戒をしていた。
最初は様子見だったけど、自分の性格は隠せるはずもなく、徐々に目立ちたい自分が出てきて、1年生の後半に歌おう実行委員というものになった。とても合唱が盛んな中学で、毎日「朝の歌」と「帰りの歌」の時間がそれぞれ15分くらいあった。その時間とか、合唱コンクールなどの行事を仕切るのが、歌おう実行委員の仕事。我が中学校では、学級委員と並ぶくらいの役割だった。
そんな役割になってから、徐々に合唱というものにハマってきた。それぞれの個性とも言うべき声が重なり一つの調和が生まれる。これが奇跡のような気がして、青春だったと今は思う。
青春といえば、中学3年生の時にNHK音楽コンクールに向けて練習をしていた時のことを思い出す。
中学3年生の夏休み、NHK音楽コンクールに向けて合唱の練習をしていた。でもみんなそれぞれの言い訳をして、練習に来ない人が多かった。それに対して音楽の先生が、「そんなに嫌なら出場辞めちゃえば」と言った。
それに対して、みんながどう思っているのかを口にした。
「これまで練習してきたのだから出場したい」
「正直他のことを言い訳にして、休んだりしていたけど出場したい」
正直、自分はこれまで練習に前向きに参加していた側だったから、ここで出場しないとかあり得ないと思っていた。
「それなら歌でその覚悟を示して」と言われて、全力で涙しながら歌った。確かその年の課題曲の「YELL」だった。
僕たちなりの叫びを形にして、「やればできるじゃない」と言われて、なんとか出場させてもらえることになった。確か県大会で銅賞だかで、その先に進むことはできなかったけど、みんなで何か一つのことに向かって全力で向かっていくという経験をできたことが嬉しかった。また合唱したいなあ。
そして青春といえば、欠かせないのは恋。
中学3年生の時は実は意外とモテていた。応援団の副団長をしていたこともあり、下級生からの支持を獲得して、なぜか体育大会の後に「握手してください」と10人くらい列になったのが、人生のピークだったと思う。
そんな時に自分が好きだったのは、隣の隣のクラスの話したことのない女子だった。今思えば、幻想みたいな恋をしていたのかもしれないけど、その時は話したことないけど、学校の廊下で、すれ違うのを楽しみにしていた。少し気持ち悪いけど、接点を増やしたくて、同じ塾に通った。
今思い返しても、ちゃんと話したのは、掃除をしているときに話した「ちりとり貸して」くらい。
自分にはない大人らしさを兼ね備えていたような気がする。
話せない毎日は続いたけど、卒業式の日に告白しようと決めていた。卒業式の日に、ボタンをくださいとかネームプレートをくださいとか言われたけど、第二ボタンとネームプレートだけは死守をした。これは愛しのあの子にあげるんだと思っていた。
でも友達に「そろそろ帰ろうぜ」と言われて、「告白するから先帰ってて」とも言えず、そのまま帰ってしまった。
流石になんとか想いを伝えたくて、友達伝いにメールアドレスを聞き出そうとしたけど、「高校も違くて関わることもないから教えたくない」と言われて撃沈した。
基本的には順風満帆だったけど、恋愛だけはうまくできなかった。
(続く)