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サッカーが好きではない私がスタジアムに行く理由



目次
・はじめに
・好きな地元を叫ぶ
・Jリーグクラブという新興宗教
・結局は自分のため


 

・はじめに


私はサッカーが好きではない。


 サッカーというスポーツでは、90分間という長い時間の中で決まるゴールは多くても4つか5つだけだ。1つもゴールが決まらないで終わる試合だってある。サッカーに詳しい人はゴールに至るまでの駆け引きが面白いというが、私はまだそこまでの境地には達していない。ピッチ上で何が起こっているのかなんて全くといっていいほど分からない。また、鮮やかなシュート、体を張ったクリア、愚直に上下動を繰り返す選手たちなどは分かりやすいサッカーの醍醐味といえるものだが、これらに心揺さぶられることもあまりない。ピッチの上で戦っている選手たちは、運動神経も悪くポンコツな私とは次元が違い過ぎて感情移入できないのだ。


 ある人は言う。「90分間だけがサッカーなんてもったいない」と。「イベントやスタジアムグルメ、マスコットなどピッチ外を楽しめばいいのだ」と。私も基本的にはこれに賛同する。だが、私が主に応援しているのはJ3のAC長野パルセイロというクラブ。J3暮らしが長く、うだつの上がらないクラブだ。


ホームゲームの日、長野Uスタジアムで開催されるイベントは、大体いつも同じ出演者が前節と大して変わらないことを喋っているだけ。スタジアムグルメに出店する店舗もすっかり固定されてしまっていて、マスコットはお出迎えのときにしか私たちの前に現れてくれない。これのどこに楽しみを見出せばよいのだろうか。もちろん、クラブは努力していると思うがマンネリ化している印象はどうしても拭えない。


 またある人は言う。「スタジアムで友達に会えるのが楽しみなんだ」と。確かにJリーグクラブには、スタジアムにはコミュニティを作るという役割もある。普段は全く別の生活を送っている人生がスタジアムで交差する。スタジアムでしか会わないけど仲良くしているという人がきっと皆さんにもいることだろう。仲間や友達と語らいながら目の前の試合に一喜一憂する。それは至福のひとときであり、スタジアムが地域に存在している大きな理由の一つになっている。


 ただ、私には一人で観戦をする、いわゆる”ぼっち”である。一人でスタジアムに行き、ゴール裏で声を出して、また一人で帰る。誰とも喋らずに4時間ほどを終えることだってある。いや、むしろその方が圧倒的に多い。会いたい人も話をしたい人も特にいないのだ。これには誰かと行動するよりも一人の方が気楽な私の性分もある。しかし、かように寂しいスタジアムライフを私は送っているのだ。こんな私が、ある日突然スタジアムに行かなくなったとしても誰も気づかないであろう。


 では、これらの悩みを抱えていながらも、私はなぜスタジアムに足を運ぶのだろうか。


結論から言えば、それは「クラブが地元の名を冠している」からだ。





・好きな地元を叫ぶ

 

 私が初めて長野の試合を見に行ったのは2014年アウェイの町田戦だった。それもいきなりゴール裏に行ってしまった。バックスタンドやメインスタンドという段階を踏まずにゴール裏。なぜかといえば、その頃の私はピッチ上のサッカーよりもむしろサポーターというものに興味があったからだ。一銭の得にもならないのに、スタンドで声を張り上げ跳ね続ける人たち。テレビでサッカーを見ていても入ってくる音声。その内部は一体どうなっているのだろうか。声を出さないと怒られるのではないかという怖いイメージもあったが、勇気を出して混じってみることにした。


 聞いたこともない駅で降りて、スタジアムへのシャトルバスを待つ。バスは街から山へと登っていき、山中のスタジアムに辿り着いた。インターネットで調べた情報をもとに名物のカレーを食べ、反対側にあるアウェイ側入り口からスタジアム内に入る。初めて入ったゴール裏はみんな同じオレンジ色のユニフォームを着ていて、灰色のアウターを着ていた私はどうしようもない心細さを感じたのを覚えている。


 試合が始まると、ゴール裏のサポーターたちは大きな声でコールを送り、チャントを歌う。私も郷に入っては郷に従えで、前の人の真似をして声を上げてみた。前日に聞き込んだチャントは覚束なかったが、コールは簡単なものだったので、初心者の私でもついていくことができた。「AC長野」という短いフレーズを繰り返す。地元の名前を大声で叫んだとき、郷愁を感じ、「悪くない」と思った。


 大学生時代、私は東京に住んでいた。大学での授業、電車の乗り方、私の体は予想よりもずっと早く東京に馴染んだ。部屋と大学の往復、休日にはアルバイト。楽しくもないし、辛くもない日々。長野に帰りたいと思うことはあまりなかった。ただ、望郷の念が私にもあったのだろう。ここでは誰も信濃の国を歌えないし、リンゴをおすそ分けしてくれることもない。今まで当たり前だと思っていたことが当たり前でない空間に置かれたとき、人は元の空間を懐かしく思うのだ。


 周囲に長野県民がいない状況に置かれた私は、急に孤独を感じるようになった。今まで繋がっていた糸が断ち切られたとき、私は宙ぶらりんで寄り添える場所などないと思えた。繋がりが欲しい。県民同士で繋がりたいと思うのならば、県人会に入るのが最短のルートだが、それはなかなかどうしてハードルが高い。県人会に入ったからには何かを話さなければならず、それは口下手な私にとって苦痛である。


 その点においてスタジアムというものは優秀だ。何千円かを出してチケットを買って入場したならば、そこは天国。一人でも何も言葉を発しなくても別に構わない。誰かと喋ることを強制されることはないのだ。


 それに、周りでは多くの人が長野のエンブレムがついたユニフォームを着ている。それは私にとって長野出身であることの証のように思えた。いや、別に長野出身でも他県出身でも、そんなことはどっちでもよくて、長野に愛着を持っていると感じられるだけで十分である。言葉にしなくても同じ長野を大事に思う者として、心の底では地続きになっている。繋がっている。心の拠りどころを求めてさ迷っていた私が辿り着いた場所がスタジアムであり、ゴール裏だったのだ。


 それから私はスタジアムに通うことを始めた。当時は長野のスタジアムは改築中だったから、代替地の佐久まで新幹線に乗っていった。佐久総合運動公園陸上競技場は青々とした空に雄大な山々が望める、今でも私の好きなスタジアムの一つだ。そこで、地元の名を叫ぶ。普段の生活で地元の名を叫ぶ機会など滅多にあるものではない。渋谷の街中でいきなり「長野ー!!」と叫んだのなら、私は完全なる不審者だ。ただ、スタジアムではそれが大手を振って許される。「長野」と叫ぶたびに私の愛郷心は深まり、地元のことをますます愛おしく思う。


 さらに、大きな声で地元を叫ぶことは、自らの再認識にも繋がる。人を構成する要素は、性別だったり、容姿だったり、性格だったり様々である。そして、そのうちの一つに出身地がある。人には生まれた場所というものが必ずあり、出身地は自分という存在のスタートであり礎なのだ。大きな声で地元を叫ぶことは、自分の礎を見つめ直し、誇りに思うことで、その礎をさらに強固にしていく行為である。自分の礎を誇ることということはそのまま自らを誇ることに繋がっている。自らを誇ることで自尊心が高められていく。自尊心が高まることで、明るく前を向いて生きていくことができるようになるのだ。


 注目すべきはこういった恩恵がただ叫ぶだけで得られるということ。なんというお手軽さだろう。ねずみ講なんて目ではない。こうして快感を覚えた私は、どんどんとサッカー観戦にのめり込んでいった。その年の暮れには大枚をはたいて香川にまで行ってしまったから驚きである。


 地元を誇ることで、自尊感情を高めるために私はスタジアムに足を運んでいるのだ。





・Jリーグクラブという新興宗教


 今でも私はスタジアム通いを続けている。ホームゲームがある週末になれば、ユニフォームを着て、車に乗ってスタジアムへ向かい、ゴール裏で声を出している。そこに思考が入り込む余地は一切ない。あらかじめプログラムされた機械のように、気づいたらスタジアムにいる。はて、これはどういったことだろうと考えたときに、一つのキーワードが頭に浮かんだ。「宗教」だ。


 たとえば、サポーターが週末になるとスタジアムに足を運ぶ行為。これはクリスチャンが毎週日曜日になると教会に礼拝に行くことに似ている。ゴール裏の狂信的なサポーターたちは教団で、私たち教徒は、教祖であるクラブからの「シーズンチケットを買え」「ユニフォームを買え」「サポーターズクラブに入れ」「スタジアムに足を運べ」といった教えにとても従順だ。「ビンや缶を持ち込まない」「アウェイエリアにホームチームのグッズを身に付けて入らない」といった観戦ルールは、さしずめイスラム教における戒律といったところか。また、知らない人を観戦に誘う行為は「布教」と呼ばれることもある。Jリーグクラブとはある意味で新興宗教なのだ。


 では、新興宗教であるJリーグクラブは一体、何を崇め奉っているのか。キリスト教ならイエス・キリスト。仏教なら釈迦。イスラム教ならアッラー。それらに相当するものは一体何なのだろうか。私は、それはクラブが本籍を置く地域であると考えている。Jリーグクラブは本籍を置く地域を唯一神として信仰する一神教である。スタジアムで歌われるチャントは地域を称える賛美歌で、私は生まれ育った地域の名をコールすることで、地元に祈りを捧げているのだ。大げさに言うならば、祈りをささげることで穢れた自分も救われると信じ切っている。


 また、全ての宗教には「教義」というものがある。手元の電子辞書によると、「教義」とは、「ある宗教で公に認められた真理」で、「真理」とは「誰も否定することのできない、普遍的で妥当性のある法則や事実」という意味だ。キリスト教でいうところの「世界は神によって創造され、人間は終末において最後の審判を受ける」、仏教でいうところの「諸行無常、一切皆苦」みたいなあれだ。正直ピンとこないが、では、新興宗教たるJリーグクラブの教義とは一体何なのだろうか。


 もちろん、Jリーグクラブもスポーツクラブの一つであるから、真理といったらそれはまずは「試合に勝つこと」になるだろう。ただ、これは相手があることなのでいつも勝利という結果が得られるとは限らない。真理が得られないこともしょっちゅうで、となれば別の真理を探す必要がある。ここで登場する新たな真理が「地域に貢献すること」だ。


 Jリーグクラブは地域の支えの上に成り立っている。これは誰もが認めるところだろう。それに、そもそも唯一神である地域が存在しないと、その下位にあるJリーグクラブという新興宗教も存在しない。その唯一神である地域に貢献することが、Jリーグクラブが行う宗教活動であると私は考えている。


 そして、私たち教徒はスタジアムに足を運ぶことで、Jリーグクラブにお布施をしている。私たちのお布施がなければJリーグクラブというものは立ち行かなくなるだろう。私たちは地域に貢献しているJリーグクラブに貢献しているのだ。裏を返せば、Jリーグクラブの応援に行くことは、地域に貢献することと同義であるといえる。何もできない自分が地元に貢献している。これはとても幸せなことだ。いいことをしているという自己肯定感も高まる。


 私がJリーグクラブという新興宗教を信仰するのは、地域に貢献したいという思いと、自己肯定感を持ちたいという思いがあってのことなのである。





・結局は自分のため


 ここまで私がJリーグクラブを応援する理由を「地元」と「宗教」という観点から考えてきた。そして、もうお気づきの方もいるかもしれないが、この二つに共通していることがある。それは「結局は自分のためである」ということだ。


 私は自分のことをどうしようもないダメ人間だと考えている。毎日自己嫌悪に陥りながらも、それを変えるための努力はしたがらない。救いようのないぐうたら人間である。ただ、そんな私でもスタジアム、ゴール裏は何も言わず受け入れてくれる。それによって今までどれほど救われてきたであろうか。大声で地元を叫ぶ瞬間。それは私が唯一自分のことが嫌いではなくなるときだ。


 先ほどの続きになるが、宗教というものは、「神仏などを信じて安らぎを得ようとする心のはたらき」によって成り立っている。他の人はどうだが知らないが、私の心は脆く壊れやすい。精神的支柱がないと、とてもじゃないけど生きていくなんてできない。AC長野パルセイロはそんな私の心の支えとなってくれているのだ。長野Uスタジアムに行き、地元に祈りを捧げることで、私の心の平穏は保たれている。自尊心は辛うじてキープされている。私がスタジアムに行くのは、選手のためでもクラブのためでもない、紛れもない「自分自身のため」なのだ。


 最後になるが、Jリーグクラブが実際の宗教と違っていいところは、棄教や改宗が容易であるということだろう。飽きてしまったらスタジアムに行かなければいい。応援するチームを変えたっていい。そして、それらは誰に咎められるいわれもない。


 ただ、私は地元が好きなのだ。そして、私が愛する地元の名を冠するJリーグクラブは現時点でAC長野パルセイロだけである。地元を、そして自らを誇るためにスタジアムに足を運ぶ。サッカー観戦はまだまだ止められそうにない。

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