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【ネタバレあり】映画『犬ヶ島』感想【切り離して考えたい】

こんばんは。これです。

今回のnoteはストップモーションアニメーション映画「犬ヶ島」の感想になります。今年の5月25日と3ヶ月以上前に公開されたこの映画。もうソフトも発売されていて、レンタルショップに行けばそのジャケットを目にすることができるこのタイミングで長野でも遅れに遅れて上映されました。DVDで観ようかどうか迷いましたが、映画の大スクリーンで観たいなというのが勝ってしまって、昨日観に行ったという次第です。私にとって初めてのストップモーション・アニメーションでした。

では、感想を始めます。拙い文章ですが何卒よろしくお願いいたします。



~あらすじ~

今から20年後の日本。メガ崎市ではドッグ病が蔓延し、人間への感染を恐れた小林市長が、すべての犬を“犬ヶ島”に追放すると宣言する。
数か月後、犬ヶ島では、怒りと悲しみと空腹を抱えた犬たちがさまよっていた。その中に、ひときわ大きな5匹のグループがいる。かつては快適な家の中で飼われていたレックス、22本のドッグフードのCMに出演したキング、高校野球で最強チームのマスコットだったボス、健康管理に気を使ってくれる飼い主の愛犬だったデュークだ。そんな元ペットの4匹に、強く生きろと喝を入れるのが、ノラ犬だったチーフだ。
ある時、一人の少年が小型飛行機で島に降り立つ。彼の名はアタリ、護衛犬だったスポッツを捜しに来た小林市長の養子だ。事故で両親を亡くしてひとりぼっちになり、遠縁の小林市長に引き取られた12歳のアタリにとって、スポッツだけが心を許せる親友だった。
スポッツは鍵のかかったオリから出られずに死んでしまったと思われたが、それは“犬”違いだった。何としてもスポッツを救い出すと決意するアタリに感動したレックスは、伝説の予言犬ジュピターとオラクルを訪ねて、教えを請おうと提案する。
一方、メガ崎市では、小林政権を批判し、ドッグ病の治療薬を研究していた渡辺教授が軟禁される。メガ崎高校新聞部のヒロシ編集員と留学生のウォーカーは、背後に潜む陰謀をかぎつけ調査を始める。
アタリと5匹は、予言犬の「旅を続けよ」という言葉に従うが、思わぬアクシデントから、アタリとチーフが仲間からはぐれてしまう。少しずつ心を通い合わせ始める一人と一匹に、さらなる冒険が待っていた─。
(映画「犬ヶ島」公式HPより引用)


※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。



「犬ヶ島」の舞台は20年後の日本、メガ崎市です。日本が舞台とだけあって多くの日本要素が登場していました。浮世絵や歌舞伎、相撲や枯山水などが映画のいたるところで花を添えていました。また、20年後の近未来が舞台だというのに、メガ崎という名前に反して、人々の暮らしは昭和のようにレトロで、家族全員でカラーテレビを囲み、野球ファンたちが屋台でラーメンを食べています。洋画の日本要素っていうのは風呂に入りながら寿司を食べたり、何かよく分からないファンタジーな日本像が形成されていることも珍しくないんですけど、「犬ヶ島」にはそれがなくて。全ての日本要素に違和感がなく、演出としても私たちが身近さを覚えられるように十分に機能しているので、観ていて安心できるものでした。

日本要素、和っていうところでいうと和太鼓を中心とした音楽もいいです。オープニングから和太鼓を使うことで、物々しさとワクワク感がありますし、劇中でも頻繁に使われることで、映画の雰囲気を締め、緊張感を生み出していました。また、サックスやクラリネットと組み合わせることで、重々しくなることを防ぎ、コメディチックな映画の雰囲気に見事にマッチしていました。

また、「犬ヶ島」で忘れてはならないのは、この映画はストップモーション・アニメーションであるということです。Wikipediaによると、ストップモーションとは「静止している物体を1コマ毎に少しずつ動かしカメラで撮影し、あたかもそれ自身が連続して動いているかのように見せる映画の撮影技術、技法」とのことです。

「犬ヶ島」はパペット、人形によるストップモーションで、それらは絵とは違って3Dで立体感があるんですよね。その立体感が独特の油断ならない雰囲気を醸し出していて、すごくリアリティがありました。さらに、ストップモーションによる人形のどこかぎこちない動きは何とも言えない温かみがあり、アタリや犬たちをより身近に感じることができました。

さらに「犬ヶ島」てけっこうコミカルな演出が多いんですよね。例えば犬たちが喧嘩するシーンなんかは白い煙が喧嘩している姿を隠す、お馴染みのアニメ的な演出で見せられていましたし、アタリとチーフが他の4匹と別れるシーンは、実にあっさりとしたもので、その唐突さがおかしかったです。その後の焼却炉の中のシーンも面白かった。その一方「犬ヶ島」にはけっこうシビアな側面もあって。犬愛好家たちの意見は聞き入られることはありませんし、反対を訴えていた教授は毒殺されます。「犬ヶ島」では、この両面のメリハリが効いていて、コミカルさがシビアさを引き立て、シビアさがコミカルさを引き立てます。両者のバランスが絶妙で重くなりすぎず、軽くなりすぎずに観ることができました。





「犬ヶ島」のストーリーとしては少年アタリがかつての護衛犬スポッツを探すために単身ゴミ島に上陸するところから物語は本格的に始まります。そこでアタリは元飼い犬であるレックス、キング、ボス、デューク、そして野良犬であるチーフと出会います。アタリは5匹とともにスポッツを探す旅を始めますが、途中でアタリとチーフ、他の4匹に分断されてしまいます。

チーフは野良犬でアタリのスポッツ捜索に気乗りではありませんでした。しかし多数決で逆らえなかったり、思いを寄せるナツメグにアタリに協力してほしいと頼まれ、しぶしぶアタリのスポッツ捜索に協力します。そして二人きりになってしまったアタリとチーフ。この2匹の友情が生まれる様子が「犬ヶ島」のストーリーの大きな柱となっていました。

アタリを置いていこうとするチーフ。しかし、チーフはアタリのことが見捨てられずに、戻ってきます。チーフも元々は飼われていた経験があって、飼い主の手を噛んでしまい、野良になったのですが、その時の思い出はチーフの心の中にちゃんと残っていました。手ごろな棒を拾い「取ってこい」というアタリ。チーフは「命令されたからじゃなくて、お前が可哀想だから行くんだ」と素直になれない様子を見せますが、内心では飼われていたころのことを思い出して嬉しかったのではないでしょうか。そして、スポッツ用のビスケットをチーフと半分こしながら食べるアタリ。同じものを食べて1人と1匹の友情は深まっていきます。

物語は進み、アタリとチーフはスポッツと再会します。スポッツは千住犬たちのリーダー的存在になっており、アタリから離れる必要があることをアタリに告げます。ここでアタリのことを思ってチーフがキレたのが友情が深まっている感じで実によかった。

そしてチーフはスポッツに代わりアタリの護衛犬となります。船の上での誓いのシーンがこれまた胸に迫るものでした。最初は反目していたアタリとチーフの間に生まれる友情が私たちをアツくしてくれます。「犬ヶ島」はアタリとチーフの王道の友情物語でもあって、私にとって、そこが「犬ヶ島」の感動できるポイントでした。





それはそうと「犬ヶ島」ってどこまでも現実的なんですよね。舞台が20年後の近未来都市メガ崎市だったり、犬が喋ってたり(ただし人間と意思疎通はしない)、いろいろとフィクションな部分は多々あるんですけど、根っこの部分は現実と何ら変わりなくて。それはこの映画の「犬」がそのまま人間に置き換えられるからなんですよね。

犬たちがゴミ島に隔離されたのは、犬インフルエンザというウィルスを持っていて、それが人間にうつらないようにという理由でした。ここで「犬インフルエンザ」=犯罪と置き換えてみると「犬」はそのまま囚人となり、ゴミ島は刑務所になるんですよね。刑務所に犯罪者を隔離するのって、罪を償わせるためもありますけど、それ以上その犯罪者による被害が広がらないようにっていう意味もあるじゃないですか。むしろ社会的には後者の意味の方が重大で、「犬ヶ島」の犬たちもそうやって隔離されているんですよね。

でも、この犬インフルエンザは小林市長が指示して作らせた人為的なものでした。猫派の小林市長は犬を根絶やしにしようと、ウィルスという理由をつけて隔離させて、集まったところを一網打尽にするという方法を取ります。犬たちは自分たちのあずかり知らぬところで作られたウィルスによって、いわば無実の罪によってゴミ島という刑務所に収容されるわけです。

物語は進んでいき、小林市長の計画が犬たちにも明らかになるとアタリと犬たちはゴミ島からの脱出、いわば刑務所からの脱獄を試みます。無実の罪によって投獄された囚人の脱獄というのは「ショーシャンクの空に」的な脱獄物の王道で、ショーシャンクが好きな私のツボが押されて気持ちよかったです。まぁゴミ島は看守がいなくて脱獄自体は容易だったんですけど、大事なのはその後です。

「犬ヶ島」では最初に「犬は人間に服従するもの」という力関係が語られます。そしてその通りに、劇中で犬は人間に逆らわず、逆らえず、従順です。ここにおいて「犬」は「弱者」そのものであり、それに指示を出す人間は「強者」ということになります。また、「犬ヶ島」では「弱者」である犬を応援する人間も、為政者という権力を持つ「強者」である小林市長にあしらわれ、「弱者」の扱いを受けていました。

最終部、第4部でアタリと犬たちはゴミ島から「脱獄」し、小林市長の前に現れます。アタリが小林市長の前に来れたのはチーフやスポッツをはじめとする多くの犬たちの協力があってのものでした。アタリが生きていた事実自体が、自らの悪事を証明することなので小林市長はたじろぎます。さらに、犬愛好家たちの代表的存在であるトリクシーが諦めずに犬インフルエンザの血清をゲットしたことで、小林市長はより窮地に追い込まれました。

そして、アタリが演説場で話した「犬たちは僕の12年の人生で出会った最も大切な友人です」という言葉と、彼が弱者と強者の関係性を取り払い、人間と犬を同等の存在として読んだ俳句が決め手となり、小林市長は負けを認め、自らが決めたゴミ島法案を撤廃します。「弱者」が「強者」に対して下克上を起こした瞬間で、カタルシスを得られる瞬間でした。「どんなことがあっても続ける」「何があっても諦めない」という姿勢が下克上を成功に導いたのです。

ただ、ここで気になったのが「小林市長、急にいい人になり過ぎじゃない?」ということです。まぁ遠縁とはいえアタリは小林市長の親戚ですし、事故によって自らの子を失った小林市長にとってアタリは自らの子どもも同然だったのでしょう。悪事を働いていたとはいえ、小林市長にまだ人の心が残っていたということですね。「優しい世界」です。





そう、「犬ヶ島」は優しい世界なんです。先ほど、犬は人間にそのまま置き換えられると述べました。今日も世界中で弱者は強者に服従しています。それは人間同士対等では必ずしもいられないということを考えると当たり前のことですが、なかには弱者に全く責がないまま、強者によって根拠のないいわれをつけられて虐げられている場合もあります。独裁政権なんてまさにそうですね。そうなると弱者はデモを起こしたり、クーデターに走るわけですが、これは多くの場合強者に握りつぶされます。現実は下克上なんてことはなかなか起こらない。それを考えると「犬ヶ島」は他の多くの下克上の物語のように、弱者にとって優しい世界とも言えます。

 
このように「犬ヶ島」は政治的なメッセージを多分に含んでいる映画だと私は感じました。誰もが満足いく政治なんてできないわけで、「犬ヶ島」の世界でも小林市長を支持している人もいれば支持していない人もいました。現実と同じですね。そして、そんな不支持者が比較的頼りやすいものといえば陰謀論です。なにかにつけて「アベガー」「トランプガー」というアレです。強大な権力を持つ人物あるいは組織が、一般市民に知られないように不正な行為や操作を行っているという論説は根拠や裏付けがなくても比較的唱えやすいもので、私たちの中にはこういった陰謀論が好きな人も大勢います。

「犬ヶ島」では犬愛好家という政権不支持者で弱者であるトレイシーがこの陰謀論を唱えていました。結果としてそれは事実だったからよかったものの、もし権力者たちの力の及ばないところにその問題の原因があったとしたら悲惨です。その権力者たちを建設的な議論もなく、陰謀論を武器に倒したとして、その先に待っているのはカオスです。陰謀論というのは権力者たちを倒した瞬間に消えてしまうので、陰謀論者の心の支えはなくなってしまい、自分で立って歩くことができなくなります。なので陰謀論というのはとても危険なものだと私は「犬ヶ島」を観て考えてしまいました。

もちろん、これは明らかに考えすぎなんですけど、「犬ヶ島」ってこのように拡大解釈しようと思えばいくらでもできる作品なんですよね。でも、政治がどうこうと考えているときには、作品の感想はよそに置いて行かれていっています。政治のことを考えるのは大切ですし、作品中の出来事を自分に重ね合わせるというのも映画をはじめとしたフィクションの楽しみ方の一つだとは思うんですけど、「犬ヶ島」においてはあまり深いことを考えずに、フィクションとして現実と切り離して観た方がより楽しめるのかなと感じました。
 




以上で感想は終了になります。「犬ヶ島」、もうソフトは出てますけど、恐らくそちらを借りてみることはないと思います。観終わった後の感想としては悪くはなかったけど、正直思ってたよりもよくもなかったので。でも、ものすごい手間のかかっているストップモーションアニメーションは一見の価値ありです。興味のある方は是非どうぞ。

お読みいただきありがとうございました。

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