芸と本性(アニメの適職)
いつだったかアニメの演出家を目指すのを辞めて、脚本家を目指そうと思っていると友人に伝えたとき、友人に歯切れの悪い表情で「脚本なんか結局コンテ作業中にいくらでも変わっちゃうもんだしなぁ」と釘を刺された。
その時俺は「まぁそうね」という気持ちと「そうは言ってもね」という気持ちが丁度釣り合ってしまって、口ごもってしまった。
その昔就活が始まる直前、いざアニメ業界に入ろうという時に、作画として入ったもんか、制作として入ったもんか少し悩んだ瞬間があった。当時先輩の影響を受けて作画オタク的価値観に染まっていた身としては、発作的にではあるが作画で入りたい気持ちが強かった。だけれど改めて自分の技術を俯瞰で見た時に、大手に入るにはそもそも後一年位の絵の修業が必要だと自分で分かっていたし、なにより絵を書くことが別に好きでも何でもない事に(作画オタク故に)気づいてしまっていたからその道を諦めてしまった。
いざ制作として職場に入ると、俺より絵が下手そうな人なんてゴロゴロいて演出のエの字も分かっていない人間なんかワンサカいて、そんな中上がってきたボロボロの素材群を、ごく僅かな真面目で技術のある人が締切に煽られながら血反吐を吐いて調整している凄惨な現場がそこにはあった。そんなツギハギで無理矢理な方法でしかアニメを作らざるを得ない現実を目の前にしてしまうと、「演出」として生きるのは余りに不毛だと感じてしまった。それが例え演出という事を考えるのが好きであったとしても。
「脚本なんか結局コンテ作業中にいくらでも変わっちゃうもんだしなぁ」
と、友人は言ったけれど、その理屈は「コンテなんか結局演出作業でいくらでも変わっちゃうもんだしなぁ」という話でも「演出なんか結局作画作業中にいくらでも変わっちゃうもんだしなぁ」という話でも「作画なんか結局撮影作業でいくらでも変わっちゃうもんだしなぁ」という話でも、どこにでも付いて回る話だ。作品の完全なコントロールというのは無理と言ってもいい。
それより直面しなければいけない問題は、作画ワンシーンだけだと作品から浮いちゃってても、コンテ一話数ならエッセンスを全開に表現できるのか、とか、演出で作画制作撮影色彩監督累計50人前後と交渉はできなくても、脚本の10人前後となら交渉はできるのか、とか、自分はシーンのムードを詰めたい人間なのか、作品の構造を詰めたい人間なのか、とか、そんな現実的な事柄じゃなかろうか。
ことアニメというものは集団で表現をするものだから、何処で何と誰となら戦いたいのか、または戦えるのか、という部分を確かめる必要があると思う。それは、”偉さ”を勘違いして、作画よりキャラデ、芝居作画よりアクション作画、演出より監督、なんて職場の優位性だけを考えて仕事を選んで失敗している人間を、制作という立場からたくさん見てきた経験から学んだことだった。
その一方で、他人との関係性の中でしか発露されない才能が、「俺はコレを表現したい!」という自己中心的な狭さを壊す可能性を、アニメという媒体は秘めていて、そうして現場で戦った痕のある作品というのは確かに熱を帯びていて面白い。それを確かめられた事だけは、それが解るようになった事だけは、制作の仕事をして良かったと思える点だった。
そんな色々を踏まえて、友人に「脚本家になろうと思う」と言ったのが伝わらなかったのは、きっと演出不足だったからなんだろう、なんて。
面白かった人、ありがとう。面白くなかった人、ごめんなさい。