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装飾武器とバイブレーター

アニメの脚本というのは、日常会話で聞く”脚本”という言葉とは結構かけ離れた仕事だと思う。ストーリーを書く、物事の流れを決める。背景設定を詰めていく。そういう事は結局ある種の理想の形であって、実際とは違っている。

現実でやっているのは、どうしたらこの物語の説得力が増すものになるのか、とか、どういうフリが無いとシチュエーションが面白さに繋がらないのか、とか、この会話のテンポは必要なノイズか、とか。そういうとても技術的なことばかりだ。

そこにばかり囚われているのは自分がまだ”型”の出来てない未熟者だからなんだろうが、それを積み重ねていく中である種の”確信”を得ていく事は、なんだか自分の居場所を見つけたみたいで、とても楽しい。

つい先日、脚本の習作が終わった。漫画原作を脚本化する作業だ。”作業”だなんて言うと、とても事務仕事な感じに聞こえるかもしれないが、それなりにカロリーを使う。主に作者のニュアンスと自分のニュアンスを擦り合わせる部分で。実際はそんな事はしなくても良かったのだろうけど。

アニメ業界の風習で、演出を目指すなら自分でコンテを書いて上司その他演出に見せて回れ、というモノがある。しかしこの風習を聞かされるのはほとんど制作の間でだけで、技術職の間ではあまり聞かないように思う。それはやっぱり制作という仕事が「技術」由来な仕事じゃないからだろう。制作という経験だけではまるで演出をやる「武器」にはなっていない。そういう見立てが業界にはある。確かに手ぶらでサバンナに繰り出して獲物が欲しいです、なんて甘えた妄言には違いない。だからこの”見せ回り用のコンテ”を自分の「武器」として用意する必要がある。しかしそれは実の所ハリボテでもいいのだ。なぜならこの「武器」は狩場で獲物と戦う為の武器ではなく、仲間に狩場に連れて行って貰うための「武器」だからだ。それゆえに、通過儀礼に用いられるような、金銀織り交ぜて難解な模様を彫り化粧を塗り込まれたような、そういう「装飾された武器」であればあるほど効果がある。

自分も時々気弱になれば「人と人とがわかりあうなんて無理だな」なんて思わされる。それは、結局こういう「装飾武器」を用意できなかった人間には、社会は徹底的に冷たい、という現実を見るたびに思うことだ。その人がどれだけの「武器」を作れる才能があるのか、獲物を追う潜在能力があるのかはまともに査定されず、ただ実績やその装飾の鮮やかさでだけでしか他人を測れない人が途方もなく多い気がしている。

他人にそこまでの興味を持てる人が少ないのか、誰も将来に期待なんかしていないのか、自分の想定できない未来というモノに対して人は本当に容赦なく暴力を振るう。

勘違いして欲しくないのは、これは批判じゃなく、悲観しているだけだ。たまたま自分がそれを見るのが得意なだけで、他人に期待をかけすぎただけで、社会を”悲観”しているだけの、そういうスタンストークだ。”正義”の残り香だ。人間はもともとそういう生き物なのだから、わざわざ気を揉むような事じゃない。

けれどそういう風潮があれば、自主制作の脚本なんかは、結局自慰用の「バイブレーター」にしかならない。”人と関わろう”という姿勢が見えづらいものだからだ。だから書いている習作だった。

だけれどもっともっと言ってしまえば、そんな「バイブレーター」がなきゃりゃ魂だって震えませんよ、という事で。それでまた自主制作を書こうとしている自分がいる。


面白かった人、ありがとう。面白くなかった人、ごめんなさい。