自由意志の向こう側(木島泰三著)を読んで
「自由意志の向こう側(木島泰三著)」を読んだ。最近、スピノザ哲学の本「はじめてのスピノザ 自由へのエチカ(國分 功一郎著)」や、スピノザ著「エチカ」「知性改善論」を読んでおり、スピノザ哲学やその周辺の議論が知りたく、本書を手にとった。
本書では、自由意志と決定論についてのこれまでの議論が網羅的にまとめられており、哲学史を追いながら各立場の位置を確認でき、全体像を掴むことができる素晴らしい本だった。また、多くの文献の紹介もあり、読みたい本がさらに増えた。
詳しくは本書を読んでいただきたいが、ざっくり解説したい。(もちろん、とても本noteだけでは十分に説明できないが)
本書で取り扱っている議論は、ごく単純にいえば「人間の○○はすべて△△によって決定されている」とする決定論 vs.自由意志肯定論の二項対立で、その間に様々な立場(両立論など)が存在する、といった構図で説明できる。
まず、決定論の立場として、スピノザ哲学から。
私たちは目的的に物事を捉える癖がある。見るための目、噛むための歯、照らすための太陽のように、なんでも目的があると考える思考習慣が身についている。この思考習慣を「目的論的自然観」という。この目的論的自然観を、自分や他人の行為についても適用することで、自由意志があるように感じているのだ。
「目的論的自然観は錯覚。自己の内部に原因があるだけであり、この原因に従って私たちは行為を行う」というのがざっくりとしたスピノザの主張である。つまり「私たち人間の行動や思考も、自然法則に従って決定されている」という考えであり、これを「因果的決定論」という。
「決定論」は運命論と結び付けて考えられてしまうことが多いが両者は似て非なるものである。運命論は「行為を、誰かが何らかの目的のために設定したものだ」とする目的論的自然観が前提となっている。「決定論」は「ただ偶然に(「ただ確率的に物事が起こる」ということと理解)委ねられた世界」であり、両者は異なる。
これらを混同すると、例えば「もう運命は決まっているんだから、期待しても無駄だ」とった文脈で人々を絶望させしまうが、これは運命論であり、「決定論」と分けて考えることでその不安は解消されるはずである。
決定論は性格においても適用される。20世紀の哲学者ポール・エドワーズの論証について、本書では、以下のように取り上げられている。
この問題意識から、本書では議論が展開されるのだが、なかなか難しい問題で、良い解決方法はないように感じた。もう少し、他文献なども読んでみたいと思った。
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