『ウィズ・ナッツ』 第8話

 再び男三人だ。むさ苦しい中、少しアキについての話などをした。
「おもしろい子だ」ハールが評価した。「いいタマだな」
「毒ガスは怖かったですけどね」
 ユッフは酔っているのか傷ついているのか、特に何もいわなかった。
 それぞれ風呂に入ったり横になったりして一日を終えた。
 翌朝もだるかった。また飲み過ぎていたのだろう。いったん起きたものの二度寝をして、昼になってからちゃんと起き上がった。ハールとユッフはバイトに行ったようだ。
 リビングは昨晩の宴会で散らかっている。それを片づけつつ、今日は古本屋に行くことを決めた。
 財布と鍵だけ持って駅前までの道を歩く。平日の昼間に町を歩いているというのも世間体が悪い。しかし町にいる人自体が少ないから、あまり気にしないでいられる。僕には居心地のいい町だ。
 やがて遠くに駅が見えてきて、もう少し行けばいつもの駅前の風景だ。古本屋を目指す。到着すると、これもまたいつもの古本屋の佇まいだ。
 読書中の店主のいるレジを通り過ぎ、本の物色にとりかかる。この物色もパターン化しつつあって、だいたい同じような眺め方になる。
 科学書のコーナーでドーキンスを見つけた。『進化の存在証明』。僕に読めるのかはわからない。それでもこれはあまり傷んでない上に定価よりずっと安く、手にとってレジへ行った。
 白髪の店主が本から目を上げる。本を差しだそうとしたら話しかけられた。
「あんた、よく来るね」
 低いのか高いのかわからない声だ。会話をするのは初めてで、当惑してしまった。
「ええ、あの、近所なもので」
「進化論者か?」持っているドーキンスを見てそう訊いてきた。
「どちらかといえば、たぶんそうです。自分じゃわかりません」
 眼鏡越しの目が鋭い。早く買いたい一方、話をしていたくもあった。
「自分の意見がはっきりしてないのか。あんた常連さんだからいいたくないが……いや常連だからこそいうべきか……本、読んでないだろう」
「そう見えますか」
「なんとなくわかるんだよ。本は好きだがろくに読まないタイプだってな」
「……読んでないです。それは白状します」
「読みなさいよ。本がかわいそうだ。この世で一番悲しいものは読まれない本なんだ。古本屋としてそう思う」
 そういって手を差し出した。僕はドーキンスを手渡した。
「千円。こいつは名著だよ」
 お金を渡し、本を受けとった。
「読みなさい。じゃなきゃこっちだって売りたくない」
「わかりました、努力します」
 軽く頭を下げて店から出た。その間後ろから視線を感じていた。
 忠告を思い返しながら帰途につく。会話も初めてなら、本を読めといってもらえたことは初めてだった。これまで誰からもいわれなかったのだ。あの店主の本への愛情から、つまり僕に買われる本のことだけを考えていて、僕自身には興味がないとしても、忠告を受けたのは僕だ。
 読みなさいよ。読みなさい――。あの古文書のような声が耳から離れなかった。
 家に着き、本棚に直行してドーキンスを入れるスペースを探した。少し整理が必要なようだった。このままでは入らない。
 本をあちこち入れ替えるとスペースができることはある。ぎっしり詰まっていては無理だが、この本棚の場合しおりや大手書店のカバーが差し挟んであり、それをどかした。
 買ってきたドーキンスを入れ、背表紙を眺め、次に本棚全体を見渡す。
 いわれた通りだ。
 本たちがかわいそうだ。
 外ばかり見られて、内側はどうでもいいというように扱われていたら、それは残酷なことのように思えた。そして僕は実際そんなことをしてきた。
 読もう、と思って手を伸ばしたが、手はどの本にも届かなかった。
 夕方になり、ハールが帰ってきた。僕の顔を見ていった。
「落ち込んでるのか?」
「なんでもないです」
「本当だな?」
「だいじょうぶですって」
 ならいいや、とまた本を開いた。イエイツは読み終えたようで、いまは唐詩をひもといていた。
 続いてユッフも帰宅した。座り込むなり嬉しげに告げた。
「今日もアキちゃん来るみたいだよ。メールが届いたんだ」
「よっぽど気に入ったんだな」僕はいった。
「俺のことがな」
「というより宴会がな。つーかお前自信たっぷりだな」
「いや、気分が高まってるだけ」
 わりと冷静なのだった。本を読みながらハールがいった。「酒はもうないぞ」
「ああ、そうか、そしたら俺ちょっと買ってきます」
 ユッフが出かけていった。アキのためならなんでもしそうなくらいだ。
 しばらく待っていると二つのビニール袋を持って戻ってきた。どっさりと買ってきて、気前のいいことにこれはおごるという。お言葉に甘えることにした。
 そわそわするユッフ、落ち着き払って読書するハール、まだ本のことで暗い気分の僕。三者三様の状態でアキを待った。
 ユッフの携帯が鳴り、着信に出ると同時に玄関のドアが開いた。アキの姿があった。
「来たよー」
 携帯越しと面と向かっていうのと、同時にやっていた。何故だろうか。
「アキちゃんはおちゃめだなあ」ユッフが猫なで声を出した。
「生まれたときからおちゃめだよ」
「すばらしいことだ。おいで、酒を買ってあるよ」
「っしゃー。ここは一杯やりましょう旦那方」言葉が男前である。女の子なのに。

(続)

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