『ウィズ・ナッツ』 第7話

 外が暗くなった。普段より帰りが遅いな、と思っているところへ、部屋に面した廊下から声がした。ユッフが何か喋っているのと、女の子の大きな笑い声だ。その声がだんだん近づいて、部屋の前まできてドアが開いた。ユッフはドアノブを握ったまま廊下にいるらしき女の子に顔を向けて話し続けていた。
「で大豆を入れといたんだよ。朝起きて、なんかくせえなーって思って、その靴下の中を見たら大豆が納豆になってたんだよね。くせえはずだっての」
 女の子が爆笑している。ユッフは玄関に入りかけてまだ喋っていた。
「なんで納豆になっちゃったかなーって不思議だったんだけど、よく思い出すと俺、前の日に納豆食ってたのね。たぶんそのせいなんじゃないかっていうイノベーティブな仮説がね、当時の俺の日記に書いてあった」
 ユッフは靴を脱いで上がってきた。女の子のほうは笑いすぎて声を出せない状態で玄関先に姿を見せた。ロングの銀髪と海外の黒いバンドTシャツ、黒のレザーのスカート。ユッフが手招きした。
「おいで、みんなに紹介するよ」
 いや、ちょっと待ってくれ、とハールがいった。
「いろいろ質問があるんだが、とりあえず、そうだな……何の話をしてるんだ?」
「一日はいた靴下に節分の大豆を入れたら納豆になってしまった、という悲劇をですね」
「喜劇じゃねえか」
「で、お前の愉快なトークで酸欠になってるその子は?」今度は僕が訊いた。
 ユッフは女の子を気づかうように声をかけた。
「ああ、ごめんね、ヒィヒィいわせちゃったね」
「うるさいよ。不快だよ。その子は誰でどうしてここに来たのかっての」
「前にいったじゃん、連れてきてやんよって」
 本当に連れてきたわけだ。女の子は落ち着いてきたようで、呼吸を整えて玄関に入り、ドアを閉めた。
「あーおもしろかった。だいぶ腹筋が鍛えられた」笑い疲れて脱力しているようだ。「お邪魔していいの?」
「どうぞ、上がって」とユッフが促す。サンダルを脱いでユッフの横に立った。
「こちらアキちゃん。駅で見つけたんで声かけた」
 こんばんはー、と気さくに挨拶するので、こちらとしてもこんばんはと答える他はない。
「そっちの人殺しっぽい怖そうなロン毛の人がハールさんで、こっちのボンクラっぽい無害そうなフツメンがナッツだ。みんなでここに住んでる」
「ふーん、ヒッピーみたいだね。六十年代アメリカ的な」
 なんというか無防備すぎる。僕は一応注意することにした。
「えーと、アキちゃん? 知らない人について行っちゃダメって、親御さんとか教育関係者とかにいわれたことないかな」
「ダメなの?」
「ダメだよ?」ダメだろうがよ。
「お兄さんたちは危ない人?」
「あのね、決して危なくはないだけどさ」
「じゃあいいじゃん。それにね、見知らぬ人にナンパされて連れ去られてみるのも楽しいかなって思ったんだ」
「中身までパンクだな。すげえわ」ハールをうならせた。
「すげえいただきました。ロン毛同士だね、よろしくハールさん」
「ああ、よろしく」
「ナッツさん、さっきいきなり気にかけてくれてありがと。胸いっぱいのよろしくをいうよ」
「よろしく。パンクもほどほどにね」
「よし」ユッフが仕切った。「じゃあ飲もうか。酒あったよね」
 そういって冷蔵庫から買い置きの酒を取り出し、あるだけローテーブルの上に並べて、そういえば、と訊く。
「アキちゃん成人してるよね?」
「うん、あれは五年前のことだったよ」
「オッケー、じゃあ乾杯!」
「かんぱーい!」
 ユッフとアキのそうした勢いに気おされつつも、僕は乾杯といって缶を掲げた。ハールは無言で、それでも缶を持ち上げてはいた。
 酒が入れば些細なことはどうでもよくなるものだ。僕たちはわいわいと騒ぎ出した。アキは無邪気にはしゃいでいて、男三人というむさ苦しさとのギャップに驚かされた。女の子が一人いるだけでこうも華があるものか。かわいいし。
「でも納豆は嘘でしょ? そんなわけないじゃんってあたし思うんだけど」
「いや、実話。納豆だけじゃないよ。納豆と、あれ、この話したっけ?」
 ユッフが僕を見た。
「いや、納豆とか初めて聞いたぞ」
「俺も聞いたことない」とハール。
「じゃあ続きを話す。節分の納豆発生の後日談で、節分って大豆まくでしょ? 鬼は外、福は内って。あの大豆がね、まきそびれてジャージのポケットに入れっぱなしだったらしいんだ。十粒くらい。それに気づかないでジャージを洗濯したのね。洗い終わって今度は乾燥機に入れて、そのうち甘くて香ばしいにおいがしてきて。なんだろうなーって乾燥機を開けたらポケットの中で豆腐になってたね」
 爆笑ものだ。酒のせいもあり、僕は腹をかかえてゲラゲラと声を出した。アキの反応も似たようなもので、体を斜めによじって呼吸困難になっていた。ハールのみ平常心を保ったままでの笑い方だった。
「もうね、いってしまえば納豆も豆腐も原料は大豆だから」
「いってしまえばじゃねえよ。どんな結論だっつの」発作的な笑いの中、僕はやっとのことで突っ込んだ。
「そのあと湯豆腐にしておいしくいただきました」
「うるさいわ。もういいっての」今度はハールが突っ込んだ。
「ありがとうございました」ユッフは漫才っぽく締めくくった。それからアキを見た。「え、アキちゃんだいじょうぶ?」
 確かに心配になるくらい笑っていた。ユッフの冗談がよほどツボなのだろう。いや、参った、と体勢を元に戻して目元の涙を拭った。
「ユッフさんおもしろいなー。ノコノコついてきてよかった」
「俺も君に巡り会えてよかった」
「ほんとうるさいなユッフ」ハールは冷静なものだ。「アキちゃん見つけてハイになってるだろ」
「そのことなんだけど、あたし探されてたの?」
「ユッフがな、その銀髪に吸い寄せられたみたいで」とハールが説明した。
「ロシアまで探しに行くとまでいってて」僕がつけ加えた。「まあストーカーの一種だよねこいつ」
「うわー、怖い。ユッフさんストーカーなんだ」
 全然怖くなさそうにいう。からかうような態度だ。
「違う違う。ストーカーとかじゃないから。健康的だから。愛の炎に包まれた孤独なさすらい人だから」
「なんかうるさいというより邪魔くさくなってきたな」
 ハールは呆れた顔をしている。僕も同じ意見だ。
「ストーカーでも害がなければいいけど。あ、でもね、何かあってもあたし丸腰じゃないから倒せると思う」
 レザースカートのポケットから何か取り出した。小さな香水の容器だ。
「じゃーん。タマネギアルカロイドスプレーです。自作です」
「ん、タマネギ……のスプレー?」謎の物体について僕がその場を代表して訊いた。
「タマネギを刻むと目が痛くなるでしょ。その痛くなる成分だけを抽出したものが入ってまーす」
 アキは得意げだ。
「毒ガスでーす」
「いささか凶悪だわ。心配はいらなかったな」
 僕がいうとニコっとした。
 騒いでいるうちにもう夜が更けてきて、さんざん飲んでみんなフラフラだ。誰からともなくお開きにしようといい出し、十二時ごろになってアキは帰り支度をした。
「また来てもいい?」
「ストーカーの家に?」ユッフがいった。
「あ、ごめん、傷つけてたかな。ユッフさんのこと、ストーカーだなんて思ってないよ。ナイスガイだよ」
 もっと自信を持って、とかいい添えて、またねー、と手を振って帰っていった。

(続)

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