『ウィズ・ナッツ』 第3話

(この章には下品な単語が含まれます)

 自問する。僕はなぜこれらの本を集めたのか? 読みたくて集めたのだ、とはいえるが、ならばなぜ読まないのか。昔誰かが僕にいった。本は出会いなのだと。僕と出会い、そうしてここに納められた本たちは読まれるのを待っているだろう。ほこりをかぶっても、背表紙がやけて変色しても静かに待っている。
 リビングからページをめくる音がした。さらり、という軽やかな音だった。ハールのように読めたならいい。
 結局また本棚から離れた。右奥の部屋に入って机にコーラの空き缶を置き、ベッドに横たわった。このベッドは僕のものだ。ここに越したときに買った。一万円と格安ではあったが寝心地はいい。
 陽が眩しく、暖かい。たまに車の通る音が聞こえ、それ以外にはページをめくる音しかしない。うとうととまどろんだ。
 夢を見た。何かの集会で、僕は天井の高い会場をあちこち歩いていた。大勢の人々がそこら中で議論を交わしていた。議論の内容はわからない。ただとても深刻なもののようだ。突然そばにいた男が話し相手を素手で引きちぎって食べ始めた。引きちぎられた男の体からは血が出ず、菓子パンのような感じがした。会場の至るところでパン人間が食べられていた。パン人間を食べた者もまた食べられ、人数は減っていった。やがて最後にひとり残った男が僕を見た。男は問いかけた。「どうする?」
 目が覚めたのは夕方で、赤茶けた西日が差していた。体を起こしてぼんやりする。変な夢を見たものだ。
 リビングから話し声がする。僕がそちらへ行くと、ユッフがハールに何かの報告をしていた。
「おはようナッツ」ユッフがこちらを向いた。「お前も聞いてくれよ」
「どうしたんだよ」
「つまらねえ話だ。聞かなくていいんじゃないか?」
 ハールがバッサリ切り捨てたが、意に介さずユッフは話し出した。
 ラーメン屋の前で解散したあと、普段行かないようなところをほっつき歩いていたそうだ。町の奥に古びた喫茶店を見つけた。純喫茶、などと窓ガラスに表示してあるのだからよほど古い。どんな店なのか気になり、ドアを開けて入った。シャツの上にベストを着た紳士ふうのマスターが、いらっしゃい、と迎えた。客は女がふたりいて、奥の席でダラダラとした様子で話していた。
「その片方の女が凄かったんだ」ユッフは続けた。
 ユッフは席でまたコーヒーを飲んでいて、トイレに立ったときに女たちを見た。ひとりはごく普通の大学生のような女だ。問題の片方は、シド・ヴィシャスがプリントされた黒いTシャツとレザーのスカートという服装で、ロングの髪の色が白かった。トイレから出たあと、よく見るとそれは銀色なのだとわかった。
 ふーん、と僕は雑に相槌を打った。「それでどうしたの?」
「いや、それだけなんだけど、凄くね? 銀髪ロングなんて初めて見たぞ。どんだけパンクだよ。しかもかわいかった」
「あんまり興味を引く話じゃないなあ」
「だからいったろ」ハールは呆れていた。「凄い女がいた、かわいかった、ってなんだよ。高校生のノリじゃねえか」
「びっくりしたんですよ、その子のもろもろに。感動といってもいい」
 ユッフは熱意を持って話したが、その感動とやらが伝わらないと悟ったようで、ちょっと怒ったような態度をとった。
「いいですよ、じゃあ連れてきますよ。その目で見ればいいっすよ」
「ここに来させるの?」僕はやや驚いた。
「うん、連れてきてやんよ」
「来たがるかねえ。こんなところに男三人じゃ嫌なんじゃないか。怖いだろ」ハールはだるそうにいった。
「平気っすよ。平気平気」
 ユッフは自信がある様子だ。そう平気でもないと思うのだが。それにまた会えるかどうかもわからないはずだ。
 日は暮れた。夕食をとろうということになり、三人でコンビニへ行こうと決まった。弁当を買うのだ。僕たちは自炊をしない。
 歩いてコンビニまで行き、店内をうろつき、それぞれ食べたいものや酒を買って家へ戻った。行き帰りでは特に話もしなかった。
 だが酒が入ると違う。苦情が来るのを心配するほど騒ぐ。本の続きを読みたいというハールは今夜は飲まなかったが、僕とユッフは大いに飲んだ。
 ハールは早々に弁当を食べ、奥で机に向かって読書をしていた。リビングでは酔っぱらいふたりの会話がぐだぐだと続く。
 何の加減か、僕たちはセックスの話をしていた。
 いや、だからさ、とユッフは説明した。
「セックスが嫌だってやつもいるんだよ」
「なんでだよ」
「一例だが、チンコやらマンコやら見たくないんだと」
「だって、見るだろ。男女なら時至れば見るだろチンコマンコ」
「それはそうだけど、チンコマンコ見たくないからセックスしないんだって」
「え、でもさ、大体においてチンコマンコというものは」
「チンマンチンマンうるせえぞ! 中学生かお前らは」とハールがこちらに顔を出してどなった。酔っぱらいに怒るのも不毛だと思うが、ひとりシラフでヘルダーリンの高級な詩にふれているハールとしては、すぐそばでゲスな会話をされると腹が立つのかもしれない。 僕とユッフは書斎にこもる父親に叱られた騒がしい子供たちのようにしょげた。以後はぼそぼそと喋った。
「発泡酒、うまいね」僕はささやくようにいった。
「そうだね」ユッフも小声で応じた。
「部屋も明るいね」
「うん、明るい」
「ハールさんが蛍光灯を取りかえてくれたんだ」
「さすがハールさんだね」
「何せロン毛だからね」
「うん、ロン毛だよね」
「人間としての深みがね」
「一味違うよね」
 酔っているのと隣室のハールに気を遣っているのとでそんな会話になった。なんとなく黙ったとき、二人でハールのほうをうかがった。僕の位置からは椅子の背もたれしか見えない。机の上の電気スタンドがついているようで、その部屋の裸電球と混じった光がもれていた。物音はページをめくる音だけだ。さらり、さらり。

(続)

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