『ウィズ・ナッツ』 第1話

 二酸化炭素のにおいがした。
 玄関脇の窓から光が差している。早朝のようだ。目をこすり、ローテーブルのそばに横たえていた体を起こした。リビングは酒の缶や瓶で散らかっていた。ローテーブルの上には食べかけのスナック菓子があった。ひとかけら取って囓ると、しけていて歯ごたえがなかった。
 ローテーブルの向こうに雑魚寝している男がふたりいる。僕とこいつらの呼吸が酸素を消費したのだろう。二酸化炭素とは人がいることのにおいだ。
 光が差しているとはいえ窓は小さく、リビングはぼんやりと暗かった。立って蛍光灯をつけると切れかかっていて、両端は黒くすすけ、並んでいる二本のうち片方は不規則に点滅していた。宴会明けのいま、目にはこの刺激が強く、すぐにスイッチを切った。あとで取り替えなければならない。僕はもう一度横になって目を閉じた。
 ナッツ、ナッツ、と呼ばれてまた目覚めた。身を起こす。束ねた長髪を撫でつけながらハールがこちらを見ていた。
「起きたか」
「起きましたね」僕はあくびしてそういった。
「もう昼だぞ」
 そうすか、と答えた。まだ眠い。少しは労働者の生活リズムに合わせろよ、などといってハールは左奥の部屋に入っていった。僕の本棚を見ている。やがてあれこれと手に取り、表紙と裏表紙を眺め、中身をめくりだした。
「お前の好みはわからねえな」
「ああ、なんでも読むんで」
 実はほとんど読んでいない。本棚とそこに納められた蔵書はインテリアになっていた。迫力はそこそこのものだと思う。
 僕と違いハールはしっかりと読む。本たちもお飾りになっているよりも読まれるほうを望むだろう。
 ハールがこちらを向いた。
「ヘルダーリンある?」
「真ん中の棚の下から二段めに」
 ハールはしゃがみこんで僕のいったあたりを探った。あった、と嬉しそうに笑う。抜き取り、読みながらリビングに戻ってきた。目は文字を追ったまま、足で器用に寄せた座布団に座った。
「詩なんて興味あったんすか」
「うん、俺こそは生まれついての詩人だね」ページをめくりつつそういった。「三千世界で俺だけが詩人だね」
 やけに大きいスケールの話になった。本に夢中で雑に答えているせいだろう。
 溜息をついたりうなったりして読みふける横で、まだ寝ているユッフが寝返りを打った。手の甲で横に向いた顔のあごひげをジャリジャリいじっている。
「ユッフが起きたらメシ行きましょう」
 ハールは返事をしなかった。没頭だ。不思議なことに本を読んでいる人間を見ると自分も読みたくなる。僕は台所に立ち、湯を沸かしてコーヒーを作り、マグカップを持って本棚の前に行った。何か読みたい。そうは思うのだが、買った時点で満足してしまうのが常であり、並んだ背表紙を見ても蔵書狂としての業を確認するだけで終わる。初夏の陽光がベランダ側の窓から注ぎ、薄く飛ぶほこりがきらきらしていた。妖精の羽根だ、と思った。詩人がうつったか。
 立ったままボーッとコーヒーを飲んでいた。
 リビングからぬううんという声が聞こえた。ごそごそと音がしてユッフが起きたことを知る。本棚から離れてリビングへ行った。ユッフはボサボサの頭をかいて半身を起こして、眠たげに僕のマグカップを見た。
「いいなコーヒー……」
「いいだろ。ゴールドブレンド、うまいぞ」
「淹れてくれよ」
「自分でやれよ」
「冷たいんですけど。二日酔いの俺にナッツが冷たいんですけど」
 斜め横にいるハールに向かって訴えたが、本から目を上げないまま「いや自分でやれよ」と無下にいわれ、ユッフはますます哀れなことになった。
「お前さ、土曜の朝に二日酔いになってるやつがこの世に何人いると思うよ」僕はいった。
「それはフェルミ推定の問題か」
「知らねーよ。お前だけがつらいわけじゃねえから甘えんなって話だ」
「でもナッツは俺よりもつらくないだろ?」
「そうともいい切れないだろ」
「だって頭いてえんだよ」手のひらで側頭部をおさえていった。
「じゃあやさしくしてやるよ」
「なんだそれ」
「バファリンの半分はやさしさでできてるって知らねえのかよ」
「いま俺に必要なのはやさしさじゃねえ! 胃に溶けて早く効く有効成分だ! キレんぞ!」
 冷たいといったりやさしさはいらないといったり、僕にどうしろというのか。ギャーギャー騒ぎ始めたユッフに「うるせえなあ……」とハールが苦々しげにいった。
「とりあえず横になっとけ。頭痛薬なんてないし、コーヒーなら自分で作れ」
 僕はそういってローテーブルのそばに座った。入れ替わりにユッフが立って台所へ行った。自分でコーヒーを淹れる気になったのだろう。湯の沸く音と共に「ひとりでできるもん……」と聞こえた。
 湯を注ぎ、自分用のマグカップを持ってこちらへ戻ってきた。座って少しすすり、ああ、と満足げにうなった。
「お前のそのコーヒーよりうまいわー」
 僕を見てユッフはいったが、たぶん味は変わらないだろう。インスタントコーヒーなんだから。
「うまいわー。うまいわーこれ」
「よし」ユッフの言葉を遮り、本を閉じてハールがいった。「メシ行くか」
 ユッフが慌てた。
「これ飲んでからでいいすか?」
「なんで?」ハールは立ち上がりながら真顔で訊き返した。
「いや、いま作ったばっかりだし」
「それが俺の人生に関係あんの?」
「どちらかというと関係ないですけど」
「そうだろ。片や俺は腹がへっている。これが喫緊の問題だ。俺の人生に関係のないそのファッキンコーヒーをお前が飲み終わるのを待たなきゃならないのか?」
 ハールは淡々と理屈を述べた。気が立っているようで、腹がへっているとこうして機嫌が悪くなる。
「ナッツ、素敵な提案がある」ユッフはいった。「いますぐ俺を助けてくれ」
「僕だって腹へってるよ。だからハールさんのほうにつくわ。コーヒー置いてなんか食いに行こうぜ」
「せっかく作ったのに……」
 ハールはもう玄関で靴を履こうとしていた。僕も玄関へ向かう。
「こんなにおいしいのに!」
 後ろでそんな悲痛な声が聞こえた。ハールはもう外に出ていた。早く行くぞ、とユッフをせかして僕も出た。

(続)

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