『ウィズ・ナッツ』 第11話(最終話)

 ハールは日々机に向かって、ペン先をノートに走らせ続けた。たくさんの詩が生まれていったようだ。詩作には僕にわからない喜びと苦悩があるらしく、ニヤニヤとしたりイライラとしたり、感情が乱れがちだった。自分の何かを犠牲にして書いているのだと思う。詩のために捨てたのだ。それでも読書することはやめず、本棚にある詩集は全て読まれてしまった。『アエネーイス』も結局ハールが先に読んだ。血肉にする、が口癖になり、再読に再読を重ねた。読ませてもらった一編の習作はこういうものだ。

私がまだ生きていた頃
晴れた夜の和やかな酒宴で
酔うことなく澄んだ目をした彼の
ついぞ誰にも悟られなかったひそやかな決断を
いまとなっては認めもしよう
彼は間違ってはいなかったのだと
神のように祈り 悪魔のように呪い
夢は見れども 救いなく安息もなく
なおも苦しみ続けたあの魂はおのが力に斃され
ささやき続ける これが人だと
偽りなき本当の人の姿であるのだと
私はあらゆる音階と色彩との影にある墓所を暴き
そうして現れた彼と無限に遊ぶ
かつて酒宴の上に在りし月のような眼を開いて
恥じるべきことと罰せられるべきこととを
世に告げて回る
私と彼がもう一度斃され 葬られるまでの約束
人よ 人よ 諸人よ
お前たちがいつ正しかったというのか
草陰に伏せた私たちは笑う
次の犠牲者が来たのだ すぐそこに

 何を思ってこれが書かれたのかはわからないが、大切な誰かへの鎮魂の詩なのだろう。
 ユッフはノートパソコンと、経営理論や消費者心理を説いた本、起業の手引きや関連する法律の注解の本などを大量に買い込み、ローテーブルに向かって一心に勉強していた。真剣さではハールにひけをとらない。会社を立ち上げるといい、どんな会社なのかと訊くと、ベンチャーとして、ネット上でコンテンツの管理サービスをやるのだといった。これはずっと温めていた構想なのだと。社名は『ワンイエン』と決めたそうだ。一円、の英語読みだ。
「通信費だけ払えばネットはタダで楽しめちゃうだろ。もちろんオンラインゲームとかソーシャルゲーム、ダウンロード販売とかアプリ、株の取引だのネット通販だのってのはあるけど、そういうのとは別の性質のものを考えてる。たった一円からでもカネの流れに参加できればおもしろいんじゃないかってな。カネは使うことが楽しいんだから、その興奮の場を準備する。誰かがコンテンツをアップロードして、誰かがそれにカネを払う。扱うコンテンツはもう、ちっぽけなものでもいいんだ。思いつき程度の雑文、落書き、そういうのでもいいし、写真でも動画でも音楽でも、ネット上で扱えるものの全てが金銭的に評価される。一円を持っていれば誰でも参加できる」
 支払われた一円は――もちろんそれ以上の額を払ってもいい――コンテンツの発信者にそのまま渡るという。企業という集合ではなく、単体の個人に手渡される、個人対個人のダイレクトなやりとりが鍵だそうだ。
「これ、ヒントはコミックマーケットなんだよね。自分で作ったものを売る人と、それを気に入ってカネを払う人。一度行ったことがあるけど、その図式って凄く楽しいんだよ。あの楽しさを目指したいね」
 採算については頭が痛いけどな、と笑った。
 アキは、二人が大変そうだから邪魔したくない、という理由でこの家に来る頻度が減った。それでも週に一度は様子を見に訪れて、ハールの詩を読み、ユッフの企画を聞いた。アキ自身はアクセサリー制作の専門学校に通い始めたらしい。
「手を動かすのは楽しいよ。自分の作りたいものだったら余計にね。作ったアクセサリーを見せてあげたい、ペンダントとかブレスレットとか」
 見せてよ、と僕たちはせがむが、今度ね、といって含み笑いをするばかりだ。
 将来はブランドを立ち上げたいそうで、そのあたりのことをユッフに教えてもらっていた。店舗、テナント代、法律や税金についてメモを取って聞いていた。
 三人はいま努力の季節を迎えていて、僕だけはブラブラしていた。古本屋通いを続けるうちに店主とよく話すようになった。店主はいろんなことを知っていて、またいろんなことを考えているようだった。僕には店主が話してくれることが万華鏡のように感じられた。古今東西の本の話を中心に、偉人やら思想やら歴史やらと、広い範囲で教えてくれた。
 いつもいわれることがある。
 例の、本を読みなさい、というやつだ。
 僕はまだ何も読めていなくて、それを店主は見透かしているのか、もどかしそうに早く読めとせかす。
「本の世界に来なさいよ。その世界がどれだけ楽しいものなのか、私はこれまで話してきたはずだ」
 そんな熱弁をされたりもした。僕は優柔不断にかわしていた。
 ある日曜日、ハールは机に、ユッフはローテーブルに、僕はベッドでゴロゴロしていて、そこへアキが訪れた。
「ちわっす。調子はどんなかな。あのね」上がり込んでバッグの中を漁る。「みんなにプレゼントだよ」
 取り出したのは三つの指輪だった。それぞれHARL、YUFF、NUTS、と刻印された、シンプルなシルバーのものだった。
「ハールさんは左手中指につけてみて。インスピレーションを高める指だってさ。ユッフさんは右手の人差し指、人を導くっていう意味。ナッツさんは左手の親指ね。意志力とか目標の達成とかだって」
 でね、と続ける。
「サイズ合わなかったらごめんだわ。作り直すよ」
 いいや、とハール。「ぴったりだ」
「俺のもだ」
「え、測ったことないよね?」僕の指輪までしっくりとはまったので面食らった。
「あたしはこっそりみんなの手を見てたよ。それで大体こんなかなって思って作った」
「才能だよそれ。目がいいんだな」
 ハールが褒めると、そんなそんな、と謙遜した。
 口々にありがとうと礼をいい、アキは誇らしいのと照れくさいのとが混じったような表情をした。お返しなんだよ、という。
「みんなといられて楽しかったんだ」
 アキはそういった。言外に含みがある。僕たちの解散が近いのだ。
 ハールは詩人たちが集団生活をするコミュニティに移り住むし、ユッフは貯金を使って事務所を兼ねた住居を見つけたところだ。アキもこの町を去り、アクセサリーの材料を扱う問屋街のそばに住む。
 四人が揃うのは今日が最後かもしれない。
「ねえ」アキの目が涙でうるんでいた。「本当に、元気でいてね。あたしを泣かさないでね」
「いま泣いてるじゃないか」とユッフがいう。「いつかみんなで、また会おう」
「そのときは盛大に騒ごうな」
 ハールがそういった。
 アキは、天使みたいにほほえんだ。

 僕は町を歩いている。古本屋へ行くのだ。もう目を閉じていても辿りつけるくらいに易々と行ける。それほど通ってきたのだ。
 店主に挨拶すると、本から目を上げた。
「寂しそうだな」
 一瞬で見抜かれた。この人にはかなわない。
「みんながいなくなったんです」
「そうかい」なんでもなさそうにいう。「じきに慣れるさ」
 僕が黙り込んでいると、白髪をかき上げてふうっと息を吐いた。
「あんたと過ごしたのが誰だったのかは知らないけどね。孤独なのもいいもんだし、本は去っていかないよ」
「そうですね……」
 店内を眺めた。ここは本の湖だ。僕はここから、両手で水をすくい上げるように本を手にしよう。
 家へ帰る。部屋には僕がいるだけだ。もう二酸化炭素のにおいはしない。
 本棚の前に立ち、いま、僕が手にした本は――。

(了)

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