『ウィズ・ナッツ』 第2話

 マンションの共同の廊下から大きく広がった空が見える。よく晴れていて清々しい。目の前の駐車場の向こうには小さな森があり、陽を受けた緑が眩しく、風にざわめく葉ずれの音は涼しげだった。ハールはこの風景をじっと見ていた。
「どうですか、この景色に詩情とかは」僕は訊いた。
「浮かばないね。ありきたりな印象を持つだけだ。でもそれは俺のセンスの問題だろうな」
 ハールが詩を書いているところは見たことがない。書いた詩自体も読んでいない。ハールの横に突っ立って同じ方向へ目を向け、書いたもの、あるいはこれから書かれるものはどんな詩なのだろうと思った。
 後ろでドアの開く音がして、振り向くとマグカップを持ったままのユッフがいた。それを持っていくのかと訊くと頷き、ぼそっといった。
「これが最適なソリューションだと思う」
「変な人にしか見えないけどな」
「よし、じゃあ行くぞ」
 ハールはお構いなしという態度で先に歩き出した。ユッフがそれに続き、僕は鍵を閉めてから追った。廊下に点々と黒いシミができていた。ユッフがコーヒーをこぼしまくっているのだ。
 マンションの廃墟じみたエントランスを抜けて通りへ出る。近場ではラーメン屋とファミレスがあり、駅前まで出れば他にいくつかメシを食える店がある。
 ハールが立ち止まったので、ユッフと僕もそれにならう。何か考えている様子だった。こちらを向いてラーメン屋でいいかと訊いた。いいっすよ、と僕が答え、また三人で歩いた。
 少し先の坂を下ったところにラーメン屋がある。僕たちは常連とはいわないまでもちょくちょく食べに来ている。
 ハールがのれんに頭を突っ込んで引き戸を開けた。らっしゃっせー、と店主がいった。ぞろぞろと入店してテーブル席についた。水を持ってきた若い店員がユッフのマグカップを見てたじろいでいた。当然だ。概ねラーメン屋にコーヒーを持ち込むマヌケはいない。
 注文を済ませてそれぞれ水などを飲む。
「いやしかしあれだ、僕たちは飲み過ぎなんじゃないかな」僕はいった。
「昨日がたまたまそうだっただけじゃないか?」ユッフがいった。「ウイスキーのボトル二本は開けたな」
「量もそうなんだけど、飲みの頻度が多くないか。ほとんど毎晩だ」
「ナッツよ、バイトが終わってほっと一息ついてから飲むビールの味を知らないだろう」ハールがいった。
「いやまあ、それは知らないっすけど」
「労苦の見返りは賃金だけじゃねえのな。労苦そのものにある楽しみと、労苦から解放される楽しみがある。その一日に酒を添えればどうだ?」
「快感でしょうね」
「最高の一杯だよ。このために生きてるーっていうじゃん? 常套句で」ユッフが横からいった。
「二人が飲みたいのはわかったんで、もう適当にしてください。体を大事にしつつ」
「そんなに若くねえからな」ハールが頷いた。
 話をしているうちに注文したものが運ばれてきた。僕は味噌ラーメン、ハールは中華丼、ユッフはチャーシューメンに手をつけた。いかにも町のラーメン屋さんという感じのこの店を僕たちは気に入っている。安心する味だし雰囲気もいい。
 黙々と食べてみんな箸やレンゲを置いた。食後も喋らず、しばらくの間壁の品書きや天井近くのテレビなんかを見てボーッとしていた。
 そういえば、と僕はいった。
「蛍光灯が切れかかってるんだった。買いに行かないと」
「じゃあ電気屋だな」ユッフがいった。
「そうなんだけど、このあたりにあったかな。場所を知らない」
「駅の反対側に個人でやってるところがあるぞ。行ってきてやろうか」ハールはそういったが、僕は遠慮してしまう。
「いや、僕が行きますよ。家主だし」
「電気が切れて一番困るのは俺なんだ、夜に本が読めないから。俺が行くよ」
 そうですか、といって結局頼むことにした。寸法を教える。どこでも売っているようなものだ。
「ところで、そろそろ店主さんの目が怖くなってきたわけだが」
 ユッフのささやき声を聞いて店主を見る。奥歯をギリギリと噛みしめたようないかつい表情をこちらに向けていた。
 昼の稼ぎどきだ。食い終わったらダラダラせず早く出ていかねばなるまい。それぞれ代金を払い、僕たちは店を出た。少し暑い。食べたラーメンと日差しのせいだ。
 じゃあ行ってくる、といい残してハールは歩いていった。
「さて、どうしよっか。どっか行く?」
 ハールの後ろ姿を見送りながらユッフがいった。
「どっかっていってもな。家の鍵を開けとかなきゃいかんし。ハールさん閉め出しになるぞ」
「あ、そうか。そしたら俺だけそのへん歩いてくる。これ部屋に置いといてくれ」
 空のマグカップを受け取り、あいよ、と返事してユッフと別れた。近くのコンビニで雑誌でも買って帰ろうかと思ったが、どんな雑誌があるのかといえば週刊誌と漫画雑誌とファッション誌くらいのものだろう。あまりそれらにそそられない。僕は本の信者なのだ。
 帰ろう。外にいてもやることがない。
 もと来た坂を戻り家へ向かった。途中自販機で缶コーラを買った。
 家に入る。宴会のあとの散らかりがそのままなので、面倒だが片づけを始めた。ユッフのマグカップは流しに置いた。
 空になっているビン、缶、つまみのパックや袋や缶詰などもゴミ箱に突っ込んでいった。汗が出る。風を入れるために家中の窓を開けた。玄関脇と、本棚のある部屋と、その隣のベッドと机のある部屋の窓だ。
 一息ついて、座ってコーラを飲んでいるところへハールが帰宅した。これで合ってるか、と訊くので箱の表示を見た。合ってます、と答えた。
「椅子借りるぞ」
 ハールはそういって、右奥の部屋から椅子を引っぱってきた。蛍光灯の下で椅子の上に立ち、切れかかっているほうを器用に外した。僕はそれを受けとり、新しい蛍光灯を渡した。」
 交換が済み、電気のスイッチを押す。部屋が白っぽく見えるくらい明るかった。よし、とハールがいう。
「こんだけ明るかったら申し分ないな」
「目に優しそうっすね」
「そうだな。俺の何が疲れてるって、とにかく目だからな。バイトとはまた違った疲れだ」
「本の読みすぎなんでしょ」
「読みすぎでちょうどいいんだよ」
 そういってまたヘルダーリンを読み始めた。僕はコーラを手にまた本棚の前に立つ。夏目漱石、坂口安吾、太宰治、中島敦、谷崎潤一郎、萩原朔太郎、中原中也、ホメロス、セルバンテス、シェイクスピア、ダンテ、スタンダール、リルケ、イエイツ、ポー、トルストイ、マン、チェスタトン、そうした定番といえるような文芸作品から、四書五経や主要な宗教の教典、国内外の現代小説、政経ものや科学もの、啓発書や哲学書や心理学の本も詰まっている。漫画もかなり集めた。
 本たちは無言の圧力をかけてくる。
 読め、と。

(続)

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