『俺捨て山』 7/7(終)
7(最終話)
晴れた冬の日、近所の工具店まで行って、店の奥で立ち止まった。モーターの部分が赤くて刃が長いもの、先端が円盤状のもの、片手で扱える小型のものといろいろ揃っている。目的に合っている小型のチェーンソーを買った。
箱を抱えて次は薬局へ行った。薬剤師に薬品の名前を告げ、身分証を見せ、悪用防止のための用紙にサインなどする。薬剤師は黒い小瓶入りの液状の薬品を持ってきた。ラベルを見て欲しい麻酔薬であると確認し、カネを払った。注射器も同時に購入できた。
必要なものは準備できた。買った品物を家へ運び、自分の部屋に置いて床に座る。ズボンと靴下を脱いだ。寒さは感じなかった。体は火照っている。小瓶の封を切り、中の麻酔薬を注射器で吸い上げる。透明で水と変わらないように見えるが、漂ってきたにおいはいかにも薬らしいものだ。病院のにおいだと思った。注射器を置き、左腿の上のほう、筋肉が集中しているあたりを幅の広い輪ゴムで縛った。左脚はすぐに痺れてきて、青く太い血管がいくつも浮いてきた。動脈を探す。静脈でもいいのだが、どちらのほうがより薬が回るのか、そもそも縛っていて血の流れが止まっているのに効き目が出るのか。よくわかっていないまま右手に注射器を持った。針先が細かく震え、一番太い血管に近づけるのに苦労した。深呼吸をして落ち着こうとする。目を閉じ、開け、輪ゴムで縛った先の血管へ針を刺した。ポンプを押して薬を注入した。冷たい感覚が皮膚の下に広がっていく。一気に力が抜けた。つついてみても感触がない。他人の脚のように思えた。両手で持って膝を立てた。支えないと倒れてしまうので、左手でそのまま押さえた。鬱血して無数の血管が浮く左脚を、これは木材だと念じた。痛くない。痛くない。右手にチェーンソーを持つ。前歯でスイッチを入れると金切り声を上げ、ギザギザした刃が高速回転した。これはうるさい、さっさとやってしまおう。痛くない。痛くない。縛った輪ゴムから三センチほど先に刃を当てた。布のように皮膚が裂け、刃に巻き込まれたところはズタズタになった。内部が露出する。筋肉と脂肪はすぐに流れ出す血に隠れた。いつかのアームカットを思い出した。いまやっていることに比べれば、アームカットなど自己破壊のうちに入らない。刃が肉に食い込んだ。ブチブチと繊維を引きちぎる。血しぶきが霧のように細かく飛び散る。目に入り、まぶたのふちで凝固した。モーター音に混じり、歯科で聞くような音がした。骨に達したようだ。削っていく。ゴリゴリという振動が全身に響いた。頭にまで響く酔いそうな揺れだったが、堅い骨を切断したあと、残りの肉はハムをスライスするより楽にやれた。
チェーンソーのスイッチを切る。
切断した左脚は断面から血を流していた。股下の断面からはさほど出血していない。輪ゴムによる事前の止血のためだろう。だが気になるのはそんなことではなく、体を離れオブジェクトになった僕の脚だ。
記念に親指の爪を剥いだ。脚は捨てることになるだろうから、これだけでも取っておこうと思ったのだ。
それからあとははっきりしない。目が覚めるとまた病院で寝ていた。断面の縫合なんかの処置が全て終わっていた。もうないはずの左脚がかゆい気がしてならず、思い切り引っ掻きたかった。しかしそんなことはもうできない。歯がゆい気持ちでいた。
見舞いに来る両親は老け込んでしまっていた。疲れきった顔つきをして、弱々しい声で僕に語りかけた。お前がそんなにつらいなら、と父がいう。
――遠いところだけど、空き家があるんだ。ゆっくり休んでもいい。
親戚が遺したものだという。いまは住む者のいない、小さな古い家だそうだ。
「そこ、住んでもいいの?」
――生きると約束したらだ。
「もちろん生きるけど」
生きるために脚を切断したのだ。家をもらえるなどということは予想していなかったが、これも今後の生き方に組み込むことにした。
入院中はときどき断面が痛み、耐えられないときはナースコールを押して鎮痛剤を打ってもらった。試しにモルヒネはないかと訊いてみたが、看護婦たちは誰も取り合わない。これは別にモルヒネを欲しがっている点で相手にされないのではなく、恐らく自分の脚を切り落とすような人間とは極力近づきたくないのだろう。
縫合した部分の抜糸が済んだのは二ヶ月ほど経った頃だった。抜糸の翌日には退院できた。
迎えに来た母と共にタクシーで帰宅し、簡単な食事をとって自分の部屋に入った。カーペットが染みで黒ずんでいた。落とせないほど出血していたのかと振り返る。しかしあまり覚えていない。あれだけのことだから、強烈に記憶していてもおかしくはないはずだが。
机には脚を切断する前から用意してあったパンフレットが置いてある。ページをめくって確認をし、早いうちに申請しようと考えた。これが最後の手段だ。
五日後、書類を揃えて保健所へ行くと、障害年金を受給することはあっさり認められた。正式な審査はまだ先だが、係員は僕の姿を見て必ずもらえると告げた。
こうやって未来が定まっていった。食べられるだけの収入、親戚が山村に遺した家、これだけで僕は自分を社会から捨てることができる。山へ放り込むのだ、僕自身の望みとして。
バランスの崩れた体では引っ越しの準備が難しく、両親に手伝ってもらいながら最低限の荷物をまとめた。荷物の中にはガラクタの入った菓子箱がある。僕はこの小さなガラクタたちと暮らすのだ。
ようやく解放される。何もできないから何もしない、そんな当然の道理による生活ができることを、とても幸福に思う。僕はこれから穏やかに生き、穏やかに死ぬだろう。
それでいい。
爪の下のピンク色をした肉の名称はなんというのだろう。つまみ上げている爪の一部に、元はピンク色だったはずの、真っ黒に変色した肉がへばりついていた。裸電球にかざして見る。光が透き通るところとそうでないところがあり、日食みたいに見える。
爪を小物たちの中へ戻した。さっきの記憶には疲れてしまった。ずいぶん過酷なことがあったもので、死んでいてもおかしくはなかったのだが、左脚の犠牲によっていまの暮らしを手に入れた。僕はサバイバルに勝った気分でいるが、社会的には負けたと見なされるだろう。
主観と客観のどちらが正しいということはない。ただ、それでも主観に正しさを感じてしまうのは、いまの僕の暮らし方に含まれる原理がどうも強力だからだ。
人を殺したくてたまらなかったこと、そんなにまで苦しかったことをさっきは思い出した。空想殺人の日々は熱っぽいものだった。しかしあれは正解ではない。
忘れることこそが殺すことなのだ。過去は目の前には存在せず、頭の中にあるだけだ。ならば忘れて、出来事も人間も消してしまえばいい。僕はこの簡単な原理に頼って生きている。
昔のことはほとんど覚えていない。記憶から消えてほしいことばかりで、実際に消していった。しかしそうした結果、僕はあまりにも空っぽになってしまった。矛盾が生じた。記憶や感情の揺れや考えごとがなく、それがいつも寂しいから、僕は何度も繰り返し思い出すことになったのだ。いいことも悪いことも区別せず、もう一度あれらの時間をと求め、生き直している。
死者の未練のようなものだ。そして僕は死者とは違い、こういった未練を楽々と癒すことができる。
このまま好きなだけ、ぐるぐると過去を繰り返していたい。
望みはそれだけだ。
松葉杖をついて片脚で立ち、電球を消した。『思い出す部屋』から出て、食器を洗うため台所へと歩いた。鈴虫が鳴いていることに気づく。秋が始まったというのに、生き残りがいるようだ。暗い廊下に立ち止まって耳を澄ませた。鋼鉄のメビウスの輪を、美しく伸びた小指の爪でなぞるような音。まるで僕に歌っているようで、熱心に聞き入ってしまった。
輪々(りんりん)――。
輪々――。
<了>
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