『ウィズ・ナッツ』 第4話

 僕とユッフは騒ぐわけにもいかず、弁当を食べ、交代で風呂に入った。もう寝ることにして、ユッフはリビングで座布団を並べて横になった。僕はベッドで寝たいので、そっとハールの後ろを通った。
「いい詩集だ。浄福と孤独……惚れぼれだよ」
 ベッドに横たわったとき、ハールが本を閉じて呟いた。まだ机に向かい、表紙を見つめている。
「もう読み終わったんすか」
「一応な。血肉にしたいからまた借りると思う。『人は書物を読むことはできない、ただ再読することができるだけだ』って言葉、知ってるか」
 首を振って答えると、有名な言葉なんだけどな、とハールはいった。
「適当に本棚に戻しておくぞ。俺ももう風呂に入って寝る」
「そこに置いといていいですよ。僕やるんで」
「そうか。配置のこだわりだな」
「まあ、そんな感じです」
 ハールが机に詩集を置き、電気スタンドを消してリビングの横の風呂場へ行ってから、僕も裸電球を消した。
 翌朝は遅く起きて、弁当と一緒に買っておいたコロッケパンを食べ、またコーヒーを飲んだ。ハールとユッフはもう朝食を済ませていた。ユッフは出かける準備をしていた。件のパンク女を探しに行くという。
「見つかるかねえ」そういった僕にユッフは答えた。
「目立つからいけると思う。日曜だし、どっか外出してるかもしれないし」
「ストーカーっぽいなとか思わないのか? やってること危ねえぞ」
 ハールの問いに俯いた。そうですねえ……といって黙る。
「や、でも、これは人捜しですから、ギリギリでオッケーかなと」
 やっとそう答えたが、決断が鈍っているように見えた。
「法にはふれてないね」
「そう、そうだよな?」
「いくらか気持ち悪いけど」
「なんだよ。ナッツも味方してくれないのかよ」
 だってなあ……。それだけいって僕は黙った。正直なところどうでもいい。銀髪のパンク女がどうのというのはユッフの関心であるだけだ。でもかわいい女だったらしいから、見てみたくないわけじゃない。
 だから訊いた。
「目星は?」
「あの喫茶店を覗いて、そんでその辺をうろついてみる」
 ショボい作戦だ。でもそうするしかないのかもしれない。
「そんじゃ、がんばってな」
 おう、と返事をして玄関へ行き、スニーカーを履いて出ていった。
「女のケツを追っかけるってのはああいうことなんだろうな。若々しい」
「ハールさん、枯れてるとこあるから」
「俺は恋愛をすると死ぬんだよ。自分でよくわかってんだ」
「死ぬんすか」
「うん、命を賭けるからフラれたときにくたばる」
「それ詩人っぽいですね」
「俺を滅ぼすのは恋だけだ」
 かっこいいんですけど、と笑うと、ハールもニヤニヤとした。
 コーヒーを飲み終え、さて今日は何をしようかと考えた。ここでダラダラしているのももったいない。十一時近くになっていた。昼食のことを考えなくてはならない。
「昼飯、食いたいものあります? 散歩ついでにスーパーに行こうかなと」
 ハールは中空を見つめた。
「ドーナツが食いたい」
 オッケーです、といって本棚のある部屋の押し入れからTシャツを出して着替え、財布だけ持って外へ出た。
 日は高く、目に刺さるように眩しい。木々の緑、車の白や青、アスファルトの灰。上を見れば空は広い。部屋を借りる前、下見に来て一番気に入ったのがこの空だった。寂れたベッドタウンで、周囲に高い建物がないのだ。人も少ないので静かなのも印象に残り、部屋を見る前から契約する気になった。
「築年数としてはちょっと古いですけど」
 家具のない部屋で、不動産屋は何か申し訳なさそうにいっていた。その通り外観にも室内にも疲れたようなくすみがあった。だが僕は気に入った。ひっそり暮らすにはうってつけの雰囲気だ。それに2LDKとしては破格の家賃だった。
 最初は一人だった。三ヶ月ほど経った頃にハールが転がり込んできて、それからすぐにユッフまで住みついた。そうして三人で暮らして半年が過ぎた。
 楽しい、と思っている。
 駅前への道を歩く。ときどき乗用車が横を通り、家族でどこかへ行くのか、子供の姿が車内に見えたりする。いま世界は日曜日である、という印のようなものだ。職業を持たない僕には毎日が休日だが、その日曜日の印はこそばゆいような、心がかゆいような気分にさせた。幸あれ、幸あれ、世に幸満ちあふれてあれ、と念じてみて、数秒後にそれが偽善だと気づく。幸あれ、など本気の願いではないのだ。こうした偽善は罪なことのはずだが裁かれることはない。偽善者として生きること自体が裁きか。
 歩くと頭が回り出す。古代ギリシャの逍遙学派について以前ハールが教えてくれたが、その連中も歩くことの効能を知っていたのだろう。
 考え事をして歩いているうちに駅前に着いた。古びた駅と六両編成の電車、客待ちの数台のタクシー、小さなコンビニ、パチンコ屋、いくつかの飲食店、そして僕が気に入っている古本屋。
 僕は本屋や古本屋を目にすると中に入らなければ発狂しそうになるという、何らかの病に取り憑かれている。だからいま、その古本屋のぼわぼわと浮世離れした佇まいに気づいて、条件反射でそちらへ向かった。
 店主は老人だ。いつもレジで本を読んでいる。豊かな白髪をかきあげて眼鏡越しに読みふける。たまにうなる。万巻の読書に疲れた、と一目でわかる。客のことは放っておく。本を買うときに値段をいうだけで、そのとき一瞬客の顔をにらむ。僕はそうしたところが最高だと思う。
 今日店内に入ってみても相変わらずだった。入って左手にレジと本の塔、その奥に店主がいた。いらっしゃいともいわず読書だ。

(続)

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