『ウィズ・ナッツ』 第5話

 古本屋のにおいはどこも似ているが、古本屋にしか存在しないにおいだ。それがカビなのか長い年月を経た本の体臭なのかはわからない。暗く、湿ったような、酔ってしまいそうな妖しいにおいだ。それを呼吸しながら店内を見て回る。
 小さな空間に詰められるだけ詰めてある。入口のある面以外の三辺の壁沿いに天井に届きそうな棚。それと中央に奥へ向けて伸びる一筋の棚があり、これは背中合わせに二列になって客に背表紙を見せている。通路は狭い。三段の踏み台があり、これにはいつもつまづきそうになる。
 何度も通ううち本の配置は覚えてしまった。個々の本というほどではないが、どのジャンルがどこにあるかはわかっている。僕は署名や著者名を示す背表紙の中を行く。哲学書を見て美術書を見て、科学、歴史、文学、サブカル……。
 二冊の詩集を手にした。これは珍しいのではないか? 現物を見たのは初めてだ。ひどく古い、茶色くくすんだ上下巻の文庫――ウェルギリウスの『アエネーイス』。これを買うことにした。
 レジで「これ、お願いします」と店主に差し出す。顔を上げ、読んでいた本を横に置いて受けとる。表紙をじっと見て、それから僕を見た。裏表紙をめくって鉛筆書きされている値段を確かめ、羊皮紙の古文書を思わせる声でいった。「六百円」
 僕は千円札を出した。釣り銭と本が返ってきて、それから店主は再び本を開き、僕は外へ出た。
 本を買ったあとの気分は何かいいがたい。秘密を手に入れたとか、財宝をいま持っているとか、簡単にいえば喜びというやつだが、いま手から体温が移っていく本が愛おしい。
 喜びにフラつきながら歩き、駅の線路沿いの道にあるスーパーへ行った。ベーカリーに直行して、ドーナツやらパンやらを買った。
 食料の入ったビニール袋を手に部屋への道を辿る。十分ほど歩かねばならないが、気分がいいので苦ではないし、そもそも散歩も兼ねての外出だったのだ。日を浴び、景色を眺めながらのんびりと進んだ。
 公園でゲートボールをやっている人々や、遊具ではしゃぐ子供たちとその親たち横目にして、その穏やかさに和んだ。
 部屋に戻るとハールは椅子に座り、背を向けて窓のほうを向いていた。
「どうしたんすか」
「いや」とそのままの姿勢でいった。「ぼんやりしてただけだ」
 食料をローテーブルに置き、自分のパンを取り出してかじる。ガサゴソと音を立てているうち、ようやくハールがこちらへ来た。ドーナツは、と訊かれ、四種類あります、と答えた。おごりではないので代金を受けとった。チョコドーナツを手にしたハールは僕の横の床にある本を顎で示した。
「それ、買ったのか」
「ええ、安かったっすよ」
「何の本?」
「あれです、『アエネーイス』です」
 僕は幾分誇らしい気分だったが、反応は薄かった。
「珍しいかな、と思ったんですけど」
「探せば見つかる程度じゃないか? でもその文庫は絶版になってると思う」
 なるほど、と頷いて残りのパンを食べる。レアなのかそうでないのかわからない。しかし僕のものになった本だ。大事に保管しよう。
 と思ったが、ハールが読みたがった。
「しばらく僕だけのものにしといてやってください」
「いつまでだよ」
「気の済むまで」
 じゃあ他のを借りるぞ、といってドーナツをほおばった。
 その言葉どおり、食事を終えたハールは本棚の前に立った。隅々まで眺めている。やっぱ詩がいいな……。そう呟いてしゃがみ、下のほうにある詩の一角に手を伸ばした。しばらく漁って二冊を取り出した。リビングに戻ってそれを胸の前にかざし、僕に表紙を見せた。
「これを借りるぞ」
 一冊はイエイツ、もう一冊は唐詩のアンソロジーだった。
「ハールさんの好みも大概わからないですね。ドイツだのアイルランドだの中国だのと」
「お前ほどあちこちには手を出さないよ。ダーウィンと聖書が同じ本棚にあるんだからよほどだぞ」
「進化論か神の存在か、両方の考えを知りたいですし」
 もちろんどちらも読んでいない。概要を聞きかじっているだけだ。だから詳しいことは語れず、話が深入りするとボロが出る。突っ込んだ話をされなかったので助かった。
 ハールはリビングの床に座り、壁を背もたれにして読み出した。イエイツからやるようだ。
 僕はパンとドーナツの袋を片づけ、奥へ行ってベッドに横たわった。最近は昼寝してばかりだ。今日は寝るまいとして窓の外を見ていた。雲をバックに鳥の群れが飛んでいた。
 まとまらない考え事をしているような、何も考えていないような時間が過ぎていった。結局眠ってしまった。
 起きたのは三時ごろだった。リビングではまだハールが読書していた。姿勢は変えていて、二つ折りにした座布団を枕にして仰向けになっていた。
 湯を沸かしてティーバッグの紅茶を作る。カップ麺などが入っている台所の引き出しを開け、せんべいの袋があったので取り出し、ローテーブルでお茶会をやった。一人で、とは寂しいがハールはいま忙しいのだ。
 せんべいをボリボリ食べて紅茶をすすって、そうしているうちにユッフが帰ってきた。ドアを開けるなり報告をした。
「いねえよ。見つからねえよ」
「ご苦労さん」
「国に帰ったのかもしれない」
「どこの国だよ。髪を染めただけの日本人だろ」
「俺はロシアに行こうと思う。あの女はサンクトペテルブルグにいる」
「座れ。いいから座れ」
 ユッフは素直に床に座った。深呼吸をさせて落ち着かせた。
 やはりそう簡単には見つからないのだろう。その女の活動時間と外出の可能性、どこかへ行っていたのかどこへも行かずに家にいたのか。そういうことをユッフにつきあって一緒に考え、話した。
 結論としては、もう運任せにしようといったものが出た。
「またお目にかかりたいもんだ」
 嘆息してせんべいに手を伸ばした。ボリボリ噛み砕く。僕も食べた。
 部屋にせんべいを食べる響きが広がり、それに集中力をそがれたものと見えてハールは本を閉じた。俺も食う、とローテーブルに寄ってきて、しばらく三人でせんべいをかじり続けた。

(続)

サポートありがとうございます!助かります。