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煉獄さん、すごいよ。(第1回)

さて、何かのテーマを一気に書ききるというのは非常に難しいため、細かく複数に分けて考えをまとめていきたいと思います。

全4篇のうちの第1篇「改めて、鬼とは?」と題して、そもそも鬼って何なんだっけ?というところから振り返ってみました。

1.改めて、「鬼」とは? (11/8公開)
2.猗窩座の誘いが意味すること(近日公開)
3.杏寿郎(ひいては”柱”)の強さ(近日公開)
4.炭治郎が受け継いだもの(近日公開)

結論から申し上げると、鬼とは人間の弱さを具現化した存在であるということ。劇場版には上弦の参(猗窩座)と下弦の壱(厭夢)しか出てきませんが、他の鬼、特に上弦の鬼たちがどんな要素を持ち合わせているか整理してみました(黒死牟はどう表現するか非常に迷っています。。。)

鬼滅の刃00

例えば、眠り鬼「厭夢」は夢をつうじて人間に”素晴らしい過去”、”望ましい状況”を見せることで現実逃避をさせます。この”逃避”がポイントで、重い病やその他の艱難辛苦に耐えられず、苦痛の無い夢の世界に逃げ込みたいと願う人間の弱さにつけこんだ鬼です。劇中、厭夢に利用されてしまう一般男女はこう言っています。

不治の病の苦しみから逃れるためならば人を傷つけてさえ良いと思っていた

邪魔しないでよ あんたたちが来たせいで夢を見させてもらえないじゃない

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私も含め人間は易きに流される生き物だから。鬼はその辺を上手く利用しているというのも分かる(以下ご参照)。

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誰もが鬼になる

”ゾンビに噛まれたらゾンビになる”ゾンビ映画みたいですが、人間誰もが鬼になる要素を持っています。貧しさから来る恨みや復讐心、嘘や嫉妬などは誰もが抱いてしまう感情です。それがたまたま鬼舞辻無惨という悪の存在と組み合わさり、強烈な形で露出したのが鬼であると言えます。つまり、そういった感情に負けてしまう人たちばかりなら、もう世の中全てが鬼になってしまってもおかしくない訳です。

鬼舞辻無惨は普段人間に溶け込んで何気なく生活しているように、あちら側(鬼の世界)はこちら側(我々の世界)と隣接していて、決して別世界としては描かれていません。加えて、鬼の行動を制限する要素として”夜しか活動できない”ということも、それを考えると非常に興味深いと思えます。

少し前にネット上が「夜の街」というワードで賑わったことを覚えていますでしょうか?

歌舞伎町の例を出すまでもなく、夜の街には人間の欲望が渦巻いています。金、暴力、性風俗。あちら側の世界に取り込まれてしまえば、抜け出すのはそう容易ではないでしょう。

鬼滅の刃の特徴として、鬼たちが「なぜ鬼になったのか?」「鬼にならざるを得なかったのか?」という物語がエピローグ的に語られますが、鬼たちは非常に悲しく辛い体験を重ねてきています。それは金で苦労したことや、他人から受けた暴力や厳しい仕打ちなどが根底にあるようですが、結局は無限列車篇で炭治郎と縄で繋がれていた男性が言っていたように、”自身が苦しみから逃れるためには他人を傷つけても良い”と思ってしまったことが、そもそもの始まりになっています。鬼舞辻無惨はそういった心につけこみ「力を与えよう」と言って鬼を増やしていくのだ。

いきなり現実にひきつけた話にしてしまいますが、それを思うと、人々を苦しめる振り込め詐欺犯罪を犯す人たちなどは、「自分たちが困っているのだから(本当は困ってなくて楽したいだけかも)、お金を無駄にため込んでいる老人からなら奪ってもいい」というような論理で行動をしており、つまるところもはや鬼といえるのかもしれません。自分可愛さに他人を傷つけようとした瞬間に人は鬼になるのである。

鬼殺隊の「心の強さ」と「利他性」

では、炭治郎や善逸、伊之助、鬼殺隊の隊士達がそうならない(ならなかった)のはどうしてなのでしょうか?

※例外的に那田蜘蛛山で亡くなった通称サイコロステーキ先輩は残念ながら利他性を持ち合わせていなかった唯一の隊士といえるのかもしれません。

(私が考える)1つの仮説として「心の強さ」「利他性」が挙げられます。どちらも鬼滅の刃の重要なキーワードであり、無限列車篇では煉獄杏寿郎が「心を燃やせ」と喝破し、列車の乗客を誰一人として死なせなかったという印象的なエピソードがありますが、その2つの要素は全編を通じて語られている要素なのです。

鬼殺隊と鬼を分かつもの、それは何か?

その点については、次回以降で詳しく述べてみたいと思う。


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