かなわない。たまもの。

(2016.2.23.記)
23歳の春、神蔵美子『たまもの』(筑摩書房)を購入した。
二人の男の間で揺れ動く自分を捉えた私写真、二人の男との関係を綴っていく日記。23歳の私は
「なんてわがままで、自分勝手な人なのだろう」
読み進めるうちに腹が立って仕様がなかった。と同時に
「なんでこんなに自分に正直に在れるのか、人様の目など怖くはないのだろうか」
羨ましい気持ちも感じていた。年を重ねながら読み返すうちに否定的な感情はなくなり
「なんてわがままで、自分勝手でそして、強い人なのだろう。この強さはどこからくるものなのか」
という疑問。自分の内包する脆さ、言わなくてもいいようなことを強く押し出せる(魅せる)こと、それを作品にできることへの憧れが増していった。

去年の冬、植本一子ちゃんから
「自費で作ったの、ミシオさんよかったら」
と『かなわない』というタイトルの本を貰った。一子ちゃんは写真家で、6,7年前に知り合ったとき、当時私がやっていたバンドのライブに来てくれたり、家に遊びにきてくれて私の写真を数枚撮ってくれた。
「ミシオさんの写真、営業で使ってるの。評判いいよ〜、ありがとうございます!」
現像した写真に一筆添えて送ってくれた。今も大切にとってある。

当時の彼女の興味のある物、人に対する好奇心の強さに少し圧倒されながらも惹かれている所があった。それ以降あまり会うこともなかったのだけれど、共通の友人が多いこともあってここ数年で顔を会わせる機会が増え、彼女は当時からすると仕事も忙しそうにみえ、子供も大きくなり幸せそうで、ハタからみていると順風満帆に見えた。見えていたからか、余計に『かなわない』を読み終えた後、「よくわからない」と思った。

人は、相手と笑顔で接するとき、その心の内でも同じように笑っているのかといえばそうではなく、人に伝えることのできない酷く、醜い感情を飼いながら笑顔にもなれるのかと、一子ちゃんの笑顔に屈託のなさだけを感じていた自分の人の内側を見る目のなさにも落ち込んだのだが、彼女が文章で綴っている内容とは異なる〈顔〉をみせていられることに驚いた。
距離の近い人なら微妙な変化にもすぐに気付くものだとは思うのだが、彼女の顔は、その表情、笑顔は会う度にひとなつっこく、最初にあった頃となにもかわらないと思っていたから。ただ、時折みせる暗い顔の理由を聴きだすような関係ではないと思ってもいたのでみてみぬ振りもしたこともあった。

『かなわない』を読みながら何故こんなに赤裸々に書けるのかと、しばらく考えていた。自分だけのことならまだしも、相手のある出来事は相手をも巻き込むことで、その人にも少なからず影響があるのではないかと余計な老婆心が湧き、自分の生きかたを晒すことによって生きかた(未来)を得ようとするように感じ、それは自己愛を満たすためだけの行為のように思え、嫌悪感があった。「よくわからない」という思いだけが残り、わからないから何度も読み返していた。読み返すうちに神蔵さんの『たまもの』を思い出した。
本棚からひっぱりだし、『かなわない』と『たまもの』を同時に読み進めていた。

同時に読み進めながらどちらの本も〈淋しさ〉というものに痛々しいほど真摯に向き合っているのではないかと思った。向き合うというより、淋しさを掴もうと足掻く行為。対峙しようとする気持ち。
この2冊に共通して感じたもの。読みながら何故胸が苦しくなるのか、少し泣いてしまうのか、時折怒りを感じてしまうのか「わからない」と思っていた一子ちゃんの文章がぐいぐいと自分の中に入ってくるのを感じ、さもしい自分の物の捉え方を少しだけ変えてくれた。

装丁も改められ本になった『かなわない』(タバブックス)を久しぶりに読んだ。愛することの淋しさ、男が気付かせてくれる淋しさ、家族をつくることの淋しさ、暮らしていくことの淋しさ、生きることの淋しさ。
〈淋しさ〉がなんなのか、こんなに丁寧に教えてくれる本はないと思った。
「叶わない」なのか、「敵わない」なのか、どちらの意味もあるのだろうか。今度きいてみよう。

本の見開きに一子ちゃんの一筆が入っている。
「愛はこういうことだよ」
こういうふうに言いきれる強さ、清々しさを持つことができる時間を自分の素手で掘り続けているのだろう。


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