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ヒマラヤスギは陰気

今日は狂言を見に行った。
娘っ子の通っている学校からの斡旋で、申し込んだら前後半とも当たったので4曲も聞いた。
もともと芸能関係にそれほど知識が無い上に、この年に一回の企画はなるべく今までと重ならないような演目が選ばれるという。私にとってはどれも未知の曲だったけれど、それぞれ意外性があって面白かったし、いくつかの場面ではちょっと鬼気迫る感じに感じられた。
はじまる前に説明があったのだけど、役者一族のひとりが明日四十九日だそうで、きっとこの世に留まる最後の演目を見ているだろうということだった。
ちょっと泣いた。

前後半の休憩時間が一時間ほどあったので、自販機で缶コーヒーを飲んだ。いちばん小さい缶にしたらごく甘いやつで、久しぶりに甘いコーヒーを飲んだ。甘くてコーヒーを飲んでいる感じがしなかったけど、後半の途中でトイレに行きたくなってきたので(カフェインが効いている・・・!)と思ってちょっと焦った(後半の途中にも小休憩があったので事なきを得た・・・)。
外に出たところに大きなヒマラヤスギが何本か植わっていて見上げていたら、同じく前後半見るらしきおばさまに話しかけられて一緒に杉を見上げた。
「ヒマラヤスギはね、ちょっと陰気なのよね。だけど、松ぼっくりがすごくかわいいの。」と、その方は仰って、杉が陰気とか陽気って面白いな、と思う。
陰気な杉をたくさん見てきた。

帰って郵便受けを覗いたら今日も歌集をお送りした方々からお手紙を頂いている。
すごくうれしい・・・。
ほんとに、自分が歌集を出した直後って、もらったらこんなに嬉しいんだから私もちゃんと感想のお葉書くらい送ろう、と思う・・・続かないけど。。。

歌集評なんかもそうだと思うけど、基本いいことを探して書いてくれるから本当にありがたい。歌壇、あったかいよね・・・。育てようとしてくれている。
まあ、たまーに、
これは一般的な話で私の今回の歌集に対してってわけではないけど、
たまーにね、文法のミスとか、テーマが平凡だとか、連作意識が低いとか、こういう内容の歌に私は同意しないってことを言う人がいて、気にしないようにしても相当凹むけどね・・・。

第一歌集を出したとき、読んでもらいたかった女性の先輩歌人からはほとんど反応なかった(計算外だったが男性の先輩は意外なほど好意的だった)。出産育児は誰もが詠んできたことで、今更あなたが詠むことないんじゃない? とも言われた(この言葉自体は尊敬できる先輩からの心からのアドバイスなのでありがたかった)。

私は誰もが詠んでいると思わなかった。
30代前半で子どもを産んだとき、同世代の女性歌人たちの半数は未婚だったし、既婚未婚併せて出産している人は少数で、しかも積極的に詠んでいるようには見えなかった。
これは誰かにとっての仕事の歌や風土の歌と同様に、私のテーマになると思った。

たとえば、その気がないのに若人は(しかも女性は)恋の歌を詠めといわれるのと同じように、選び取ったテーマを外から云々されることもまた苦痛だ。
私の歌ではないけれど、母親がこういう歌を詠むなんて虐待だ、という意見を聞いたこともある。こいつのこの言葉、言っているときの表情、一生忘れんぞ、と思った・・・。

まあ、しかし、どんな感想を抱いたとしてもそれもまた読む方の自由ではある。ただ、感想を超えた批評というものは、作者のためにあるわけでも評者のためにあるわけでもなく、歌そのもののためにあるので、歌そのものとまっすぐ向かい合っていたいな、と思う。