見出し画像

外に出なかった日曜日

FGOも刀剣乱舞もイベントや周年記念で賑わっている。昨日発表された刀剣乱舞のAI「まめのすけ」のキャラデザがあまりにかわいくて今日はほぼ脳が溶けている。

ゆうべ刀剣乱舞の9周年記念のYouTube番組を同時視聴しながら、人生において流行り物にハマったことのなかった私が中年になってこういうものに熱中するとは不思議だな、とつくづく思った。
バブル期前後は歌謡曲にしてもドラマにしても服装にしても仕組まれた流行があって、なんとなくそれに添うのが嫌で背を向けていたようなところがあった。(90年前後に短歌を始めた人はそういう人が多いのではないかと思う。)
テレビの前でオープニングを待つような経験がほぼないので、YouTubeの時代になってチャットまで書いている自分が本当に不思議。こんなに楽しいものだったのね。
内容がどうというより(それもあるけど)、多くの見知らぬ同時代の人と体験を共有できるのが楽しいんだ。

短歌ブームと言われるようになって、まあ、そのほとんどは実作者なのだろうけど、「純粋読者」と言われる読者も存在しているのだと(とはいえある程度読んでいれば作れと言われたら作れると思うけど)知った。

それはとても嬉しいことである反面、短歌を本当に理解できるのは同じ歌人だけだと言われることもある。
やや暴論ではあるけれど、それだけ短歌を作る敷居というのは低くて、その気になれば誰でも作れるということなのだろうとも思う。

作るかどうかはまあともかく、読む人でなければ長く続けていくことはできないだろうなあと思う。
これは歌人だけではないだろうけど、物を書く人はいつも不安で孤独で、褒められれば嬉しい反面どうせお世辞だろうと鼻白むし、貶されればそれが的外れな誤読だとわかっていても傷つく。
だけど、他人の作品を読む人は、将来にわたって自分の作品も読まれることを信じていられる。今理解されなくても100年後の誰かが読んでくれるのではないかと期待し続けていられる。自分が10年前50年前100年前の歌集を読むからね。

作ることと読むことと、それは自転車の両輪なのかもしれないなあと、そんなことを思う日曜日なのだった。