自然に生れるものではない。明らかに制作する。作る。生むのである。まさに日常生活との闘争である。(加藤克巳)日記より

4月3日(土)

このあいだTLに現代短歌委員会編集の「現代短歌 ‘○○」の話題が流れてきたので、家にある「現代短歌'○○」をぱらぱらとめくってみたら、戦後の超結社の会について書かれているらしき本の記載があったので、その本(加藤克巳『意志と美』)を買ってみた。
加藤克巳には『新歌人集団』という著作もあって、新歌人集団についてはそちらが詳しいけど、『意志と美』はエッセイ集なのでこれはこれで当時の状況の襞が見えて面白い(新歌人集団の最初の会合の時はまだ戦後の混乱期で夜に出歩くには物騒だったから加藤は30歳くらいで脚は元気だったけど護身のためにステッキを持っていったとか)(冬だったからみんなで一欠けらずつ炭を持ち寄ったとか)。

新歌人集団関係以外も「近代」(加藤の結社「個性」の前身)に書いた短いエッセイが面白くて、たとえばそのなかの「生活と短歌」というタイトルのエッセイがこんなの。

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仕事に忙殺される。魂の憩う時がない。朝起きて、一日中無我夢中で働く。そして夜も仕事関係で十二時、一時となって帰って来る。それが時には何日も続く。
・・・(中略)・・・
そのくせねんがらねんじゅう歌のことを忘れた事がない。短歌が頭の芯にこびりついている。おおよそ毎日毎日の行動と、頭の中とが遊離している。
・・・(中略)・・・
多かれ少なかれ生活の、特に精神生活の大部分をこの短歌という魔人にがんじがらめにされている。それではもう少し生命を賭けた様なましな作品が出来てもよさそうなものだし、またこの様な緊張した現実との闘争の中から生まれ出る歌であるならば、もう少しきびしく、激しい魂の闘いのあとがあってもよさそうなものである。
ところが、おおむねにえきらぬ中途半端なもので充満している。或は愚痴か若しくは安易な慰め言か、退嬰的な詠嘆で終始する。
・・・(中略)・・・
自然に生れるものではない。明らかに制作する。作る。生むのである。まさに日常生活との闘争である。だがこの様にして作られていく短歌こそ、絶対の生活詠なのではないか。生活との対決、そこにこそ真の生活短歌があるはずだ。

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もうね、共感の嵐。
私はそれほど忙しくないけどね。
歌は自然に生まれてくるとか、生まれてくるときを待ってるから欠詠やむなしとか、天才だけのセリフだよね、と思う。

やけくそな感じの文体がまた、いいよねえ。