沈思黙読会:斎藤真理子さん「子供が本を読みはじめるときのプロセスは人によってかなり違うのではないか。そしてそのことは大人になった人の読書をどう規定しているのか。ということ」
第9回 沈思黙読会での斎藤さんが語ったこと。
前回の沈思黙読会からの一か月で、あらためて「本を読む」こと以前に、「文字を読む」ということが、人類にとっては相当特殊なことなんだなと、考える機会がありました。
今、『世界』という雑誌で、韓国の翻訳家のチョン・スユンさんと、毎回お互いに何か質問を一つ投げかけて、それについて答えるという往復書簡のようなエッセイを連載しているんですが、前回、チョンさんから「子どものときに読んだ本について教えてほしい」という質問があったんですね。特に、いまやっている翻訳という仕事に繋がるような、海外の本を読んだ経験があったら聞きたい、と。そこで、あらためて自分が本を読み出した頃のことを思い出そうとしたんですけども、とても幼い頃のことなのではっきりは思い出せないんです。
ただ、いろいろ考えてみて、それは自分にとって神話だなと思いました。そしてそこから繋がって、ある時期、特定の本に執着した時期があったことを思い出したんですよね。同じ本を繰り返し繰り返し繰り返し、ずっと読んでいた。それを母が見ていて、本の読み方がすごく変に見えたらしくて、学校の図書館に行って司書の先生に「うちの子が本を借りに来ても貸さないでくれ」って言ったくらいなんです。
当時、本当に隙あらばずっと文字列を追ってるいるという感じの読み方をしてたんですね。いま思うと非常に幸福だけれど、なんとも獰猛な読み方と言いますか。あれは何だったのかなとあらためて考えてみると、私は字を覚えるのが結構速くて、しかも覚えたそばから手当たり次第に文字を読むようになった。とにかく文字列を読むのが好きだったんです。
だからそれ以前の、耳からだけ情報を摂取して想像する時期ーーたとえばお話を耳で聞いて、自分の中でその像を作り上げていくっていう時期を、すごく急いで出ちゃったんじゃないかなと思ったんですよ。こういう場所に集まってこられる方は、同じような人も多いんじゃないかなと勝手に想像するんですけど。しばらくの間はそれでよかったんでしょうけれど、やっぱり1人の子どもにとって文字からお話を想像する、文字と一対一で向かい合うことって、かなり大きな変化というか、それまでの体験が一度壊れるくらいのことなんじゃないかなという気がしたんですね。
もちろん1人1人が違う過程をたどるとは思うんですけど、私はそれをなんとなく、生物が進化する過程で、水中から陸に上がるようなイメージで捉えたんです。水に入るのが早かったのか、水から出るのが早かったのかわからないですけど、ちょっとそこでアンバランスが生じて、車の右の車輪と左の車輪がうまく連動していないような、ある種の軋みが生じたんじゃないかと思うんです。それが、特定のお話の本を繰り返しずっと読むという行為につながったのではないかと。
何度も読んで、もうお話なんか全部よく知っているのに、とにかくその文字列にずっと張り付いて、それを見ていないといけない時期があったのは、どうもそのアンバランスを解消するための、毛づくろいみたいなことだったんじゃないかな。同じところを何回も何回も舐めるように読むっていう、そういう行為だったのかなという気が何となくしてきたんです。
これは本当に何の論拠もなくて、単なる個人の癖ではありつつも、やはり「文字を読んで、その世界を自分に取り入れる」という、多分人間しかやっていない行為の特異さ。その特異な行為に馴染んでいく途中での、一つの儀礼のようなものだったのではないかなと。
この沈思黙読会では、皆さんと一緒にずっと「読むっていうことは、一体なんなんだろうね」っていうことを考えてきました。考えて、話すたびにわからなくなっていくばかりなんですけれど、その「わからなさ」っていうのは、結局「文字のわからなさ」なのかもしれない。人類が文字というものを創り出して、そこから1冊の本を読んで、そこに書かれた世界を受け取ることができるようになった。
それって本当にすごいことだとは思うんですけれど、そのことに人類はどう馴染んでいったのか。本を読む行為って、全く読まない人、読む文化がない人、読むことが当たり前じゃない時代の人から見たら、本当に変な行為だと思うんです。紙に何かが書かれたものをずっと見ているだけで、感情が大きく動かされたりするなんて。しかも人類の長い歴史の中で、ほんの最近起きたことですから。読書って、実はそんな変化を私たち1人ひとりが追体験しているんじゃないか。だから、いろいろわからないことがあるのかもしれないなと思いました。
そんなことを思ってるときにですね、今日は持ってこなかったんですけど、みすず書房から出た島田潤一郎さんの「長い読書」という本がありまして。この会でも読まれていた方もいらっしゃいましたが、私も沈思黙読会で考えているようなこととも少し関係があるんじゃないかなと思っていて、先日、満を持して読んだんです。そうしたら、今、お話ししたような内容と関係あることがいろいろ書いてありました。この本は、読書に関するエッセイ集なんですけれども、本のことというよりは、自分の生活と本のあり方、そういうテーマで括れるんじゃないかと思います。ちょっと面白かったところがあるので、少し読みますね。「本を読むまで」というタイトルのエッセイで、本の最初に置かれています。
本当に、その通りだなと思います。たとえば韓国関係の話をしていると「まずドラマが人気になって、それからK-POP人気に火がついて、最後に韓国文学が広く知られるようになったね」ってよく言われるんですが、「最後が本になるのは当然だよね」と韓国の作家も言うし、日本の仲間たちも言うんです。モニターをつければワーッと情報が入ってきてくれるのとはわけが違って、やっぱり本は意志を持ってページを開き、そこに入っていかないと始まらないからね、と。
この「入っていく」っていう動詞が使われるところが、映画や音楽とはちょっと違うところかなと思うんです。映画も音楽も「入れなかった」って言うことはありますけど、どっちかというと「乗れなかった」って感じだと思うんですね。でも本は、乗る乗れない以前に、「入っていけない」っていうことがある。翻訳者にはこの「入ってもらえなかったらどうしよう」という恐れがあって、1ページ目の翻訳にはすごく神経を使ったりするんですよね。
そんなふうに、そもそも「入れない」状態があるということは、読むという行為に向かうためには、自分で自分の状態を調整する、いわばチューニングをしなければいけない。それは本や小説の特性であると同時に、「文字」というものの特性なのだろうなと思うのです。
最近、子供の学習支援の研究をしている方の書いたものを読んだら、子供たちが読書を学んでいくときには、まず初めはみんなと一緒に音読して、それから黙読ができるようにしていくんだけれど、実は黙読ができない子どもたちが結構いるという話が書かれていたんです。
黙読って、一回、文字を頭の中で音に変換して、それで理解するわけですよね。私達、この会ではよく「脳内音読」と呼んでますけれど、一文字も飛ばさずに文章を音読するときの、音だけを消した状態で読んでいく。ところが、黙読ができない子どもたちっていうのは、音には変換できるんだけど、その先に進めなくて、何となく文字列を眺めているだけで終わってしまうんだそうです。
それで思い出したんですが、私、昔どこかで「昔の人は黙読ができなかった」っていう話を聞いたことがあるんですね。基本的に文字というのは声を出して読むものであって、黙って読めって言われるとすごく困ったもんだ、っていう話、たしか明治初期ぐらいのものだったと思うんですが、誰かが書いてたか、そういうことを人に聞いた覚えがある。となると、人類にとって黙読っていう行為は、文字との付き合いよりさらに歴史の短いことなんじゃないかな、と、そんなことも考えたりしました。
次回の沈思黙読会(第10回)は、8月17日(土)、詳細とお申し込みはこちらです。
基本的に月1で、神保町EXPRESSIONで行われます。
学割(U30)有。オンライン配信はありません。
※トップの画像は、佐々木マキ「ことばのかくれんぼ」(こどものとも年少版1989年12月号・福音館)より。雑誌『世界』連載の、チョン・スユンさんと斎藤真理子さんの〈往復エッセイ〉「言葉と言葉のかくれんぼ」にちなんで。
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