失われた読書の時間を求めて
尾崎世界観さんが、2024年1月19日の読売新聞朝刊で、斎藤真理子さんの『本の栞にぶら下がる』を書評されていました。冒頭、このように書かれています。
アトロクへのご出演で、斎藤さんはスマホを「陣地」と称されていました。現代のテクノロジーの結晶したようなスマホ、世界と常時接続している第2の脳のようなスマホは、まさに自分の陣地。本を読んでいても、ついついメールが来ないか、SNSはどうなっているかをチェックせずにはいられない。また分からない語句とかあれば、検索して調べ、さらに連想が連なって、はてしなく検索してしまう。
ある若い人に「あの映画、どうだった?」と聞くと、彼は「ちょっと待ってください」と、スマホでその映画の感想サイトを開いて読み始めたので驚き、「俺が聞きたいのはあなたの感想。人の感想ではない」と怒ったと杉作J太郎さんが言っていた。その若者は自分の感想はあるにしても、まずは陣地を確認したかったのかもしれない。
失われた静謐な読書の時間を求めて。実はいつのまにか、昔の読書時間と今の読書時間は違っているように思えてならない。
スマホを遮断して本を読む。本は文字が書いてあるもの。文字は情報。情報だからデジタル。だから、デジタル処理すればいい。それはそうなのだが、それだけでは割り切れないものがある。
沈思黙読会を自分で体験してわかったのは、読書がいつのまにか、タイムラインのようにして流れていくデジタルな情報のごとく、読むというより文字を見るということに変わっているのではないか、ということ。少しも落ち着くことなく、ただ膨大な情報という波にさらされている感覚。昔、夢中になって読んでいたあの本への圧倒的な没入感はどこへ行ったのか。いつのまにか読書もそのように、読むのではなく、タイムラインのようにただ見ていだけになっているのではないか。
見ているだけで、読んでない。この違いは、読書で決定的ななにか違いを生み出している。それが「失われていること」。
だから沈思黙読会は読むことを取り戻す運動でもある。別に会場である神保町expressionに来なくても、一人でも、友人とでも、やればいい。肝要なのは、スマホという「陣地」を離れて、本と一人で向き合うこと。
しかし、これがなかなか一人ではできない。スマホという自分の陣地を離れるてしまうということを、強制的にやってしまおうという試みが、沈思黙読会の主旨のひとつ。来場者は、本を読む他の人と並んで読んでもいいし、個室に入って読んでもいい。会場内のあれこれの席を移動して、本と読むこととそれがいったいどのような作用を起こすのか試してみるということ。
そもそも読むとはどういうことなのか。
そんなことを、読書の達人である、斎藤さんと、ご来場者と探求するの場が、沈思黙読会です。