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沈思黙読会:斎藤真理子さん「夏目漱石『門』を読みながら、脳内音読について、あれこれ考えてみた」

第7回 沈思黙読会で、斎藤さんがお話になったことのまとめです!

先回からゴールデンウィークを挟んで3週間。また早かったなという感じがしています。前回は、ゴールデンウィークに入る前にここでお話をして、翌日は新潟で本に関するイベントがありました。新潟出身の翻訳者3人で、好きなことをしゃべるというイベントをやったのですが、かなりたくさん人が集まってくださって、いつもこの沈思黙読会に来てくださっている方も東京から駆けつけてくださったりもして、ありがたかったです。

そして、新潟で本に関するイベントをやっていらっしゃる方が、「沈思黙読会」のことを知っていてくださっていて、新潟でもやりたいとわざわざ私にお知らせに来てくださったんです。他にも神戸の方でやりたいと言ってる方もいらして、どんどんこの試みが広まったらいいなと思っています。

それはそれとして、今日は私、夏目漱石の「門」を持ってきたんです。いつもはだいたい3冊ぐらい持ってきて、あっち行ったり、こっち行ったりすることが多かったんですけど、今日は「これを読もう」と決めて、これ1冊だけを持ってきました。漱石は好きなので、「門」くらいは家にあるはずだと思ったんですけど、探してもなくて、結局、昨日、書店で買いました。沈思黙読会のために本を買ったのは初めてで、真っさらな本を仕立て下ろしのようにして読んだのが、ちょっと感慨深いです。

その「門」を読みながら考えていたのは、「読書のスピードと読書の時間」ということなんです。よく「私は本を読むのが遅いんです」って、ちょっと自嘲気味におっしゃる方がいらして、本当にそういう声はよく聞くんですよね。「自分は読むのが遅いんで、ごめんなさい」とかそういう感じ。反対に、「私は読むのが早いので、ごめんなさい」って言ってる人は見たことがない。読むのが遅いのって、全然悪いことではないし、読むのが早いのがいいことでもないはずなんだけど、やっぱり読書の速度については、遅いのが、ちょっと損なこと、ひけ目に感じることのように思われているのが、考えてみると不思議だなと思います。

当然のことながら「本を読む速度」に決まりはないんですよね。1冊の本をどのくらいの時間で読むのが適正なのかっていう数値はない。すごくぶ厚い本でも、速読術を使って2時間で読んでしまうこともできるでしょうし、薄い本でもじっくりと何日も時間をかけて読むことができるわけですから。

そんなことを考えていて、自分にとっても「本を読む時間の流れ方」を体感するような読書を最近していないなと思ったんです。そこで今日は何十年ぶりかで、この会の初回でテーマにもなった「脳内音読」をやってみました。

つまり、一字一句を一文字もはしょらずに、脳内で声を出して読む。実際に声は出さないけれど、全部の文字を脳でたどっていくような、斜め読みとは対極にある読み方をやってみたんです。そうしたら、やっぱりそれ以外の読み方とはちょっと違う時間が流れたなという気がしました。

特に今日はちょっと眠かったので、途中で目は次の文字を追ってるんだけど、脳内は寝てる、そうすると一文字ずつ追って脳内音読しているにも関わらず、斜め読みみたいな感じになっちゃうんですよね。そうすると戻ったりしてさらに時間がかかるので、脳内音読をして一文字ずつスキャンするといっても、やっぱりそれにかかる時間は個人差があるし、1回1回の読書でそれぞれ違うだろうなと思いました。

とはいえ、恣意的な読書をしているときと比べれば、読書にかかる時間が測りやすいわけで。たとえば今日、測ってみると私は1時間に22〜25ページくらいのペースで読んでいました。これもたぶん人によってすごく違うと思います。まずは早口な人と、そうじゃない人とでも違うと思うんですね。私はわりと早口なので、結構パラパラっと読んでいる。でも漱石って、ルビのふり方とか漢字の使い方がすごく独特で、斜め読みだと「ああ。なるほど」と思っても流してしまうところが、脳内音読だと「こんな字の使い方するんだ」と思ったりして、そこで目が止まる。そういうことも計算に入れると、やっぱりもっと遅くなるのかなと思います。

それと今回、ちょっと思ったのは、自分が活字をたどっていくスピードと、読んだ内容が何らかの情景として私の脳内で展開されるスピード。この2つのスピードがすごくいい感じで合ってることもあるんだけれど、そのバランスが合わないというか、バラバラになっちゃってるなと感じるときがある。そして、活字を追うスピードと情景が展開されるスピードがいい感じでぴったり合ってると感じたときは、その読み自体が「作品」になっているような気がしたんです。

夏目漱石の「門」は、もちろんいい小説に決まってる。100年前からそれは決まってるんですけども、それはそれとして、今日、私がこれを読んでいる、ある時間、たとえばある何分間、あるいは何十秒、すごく出来がいいなって感じる瞬間がありました。それは、ずっと持続するわけじゃないんですよね。なんというか、点滅するようにして現れたり消えたりする。けれど、その出来のいい時間というのもまた1個の作品のような気がしました。そういう感じっていうのは、やっぱりスキャンするように1文字ずつ読んでいかないと味わえないもののように思いましたね。

また自分が読みながら、「脳内音読」と「情景の展開」という二つの速度がぴったり合うように調整しているような気もしていました。自分が、その歩調が合うかどうかを調整している番人みたいな気分もして、読むっていうのは誰、あるいは何が主体なのか、本が主体なのか私が主体なのか、それがわからなくなるような感じもありました。漱石が書いたテキストと、こちらの読書が動きをもって、どこかで重なっていく。それをうまく調節したいと思って、番人のように見張って、伴走しているような感じ。だから読書っていうのは、どこか歩行に似てるなと思ったんです。というようなことが、今日やっていて思ったことです。

そして、今回で7回目になるんですけれども、皆さん、過去何回も出てらっしゃる方もそうだと思いますけど、やっぱり1回1回で読書の質も違っていて。初回でスマホをストップして読んでみたときに感じた「私はこんなにスマホに依存してたのか!」っていう衝撃は、ちょっと薄れてきました。その代わり、回を重ねるごとに「本を読む時間を計る」というか、体内読書時間の時計みたいなものができてきたような感じがするんです。本を読みながら、「大体このぐらいの時間が経ったかな」ということがわかるようになってきた。たかが月1回ですけど、重ねていくことで何か変化が生まれてきたように思います。

そんなふうに、沈思黙読会では本を読みながら、思いのほか「時間」というものについて考える時間が増えました。最近いろんな方といろんなところで話をしていて、コロナ期の振り返りの話をすることが多いんですけども。皆、はやくもコロナのいろんなことは忘れているんですね。ただ、コロナの間の3年間って、時間の流れ方が変わってしまったねっていうことと、その3年間の時間が圧縮されてなかったもののようになっていて、前後関係がわからなくなっている。あそこで時間が止まってしまっていて、その後の自分とうまく接続していかない、というような話がよく出るんです。

コロナのときに他人との交わりがすごく減ってしまった。あの、時間を持て余してる感じ。私たちは未だにその回復の途上にあるような気がするんです。そして、ここで私たちが集まって本を読んでいること。それぞれバラバラの本を読んでいるんだけれども、同じ時間の中にいる。違うことをしながら、時間としては共有している。これもまた回復の過程なのかもしれない、という気もしています。

次回の沈思黙読会(第8回)は、6月8日(土)、詳細はこちら
基本的に月1で、第3土曜日に神保町EXPRESSIONで行われます。
(斎藤さんのご都合で第三土曜日でない月もあります)
学割(U30)有。オンライン配信はありません。


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