一姫二太郎が慶應大学に受かりました Episode1
偏差値の低い公立高校卒の我ら夫婦のもとに生まれてきた、うちの一姫二太郎(長女・長男)が超難関大学といわれる慶應義塾大学へ現役合格するまで(もしかしたら卒業後のことも含め)のことをエッセイ風に書いていこうかと思います。
なぜ、このタイミングで書くことにしたのか?
前回のnoteが第一弾になったのですが、そこには更年期と戦っている自分の今を書きました。最近ほんの少しだが幾分調子が良くなってきている気がして、こうしてPCの前に座って文字を打つことができています。それが第一の理由。
第二に、太郎が受験期を迎えた頃、激励のつもりで口に出た「太郎がさ、もし慶應に受かったら、姫と太郎二人とも慶應じゃん?それってすごいよね?ママ、子育て本でも出しちゃおうかな~。」という冷やかし半分の約束。しかし、複数のお子様を東大に合格させた母親の子育て本が出回る昨今、子供二人を慶應に合格させたくらいではインパクトが弱い気がして、恐れ多くて【子育てhow-to本】などというものを書く勇気はありません…。
そこで、私は私なりの書き方で、私のことや、我が家の一姫二太郎の子育てを振り返りつつ、我が子を二人とも慶應大学にぶっこんだ記録を徒然に紡いでいこうと思います。
我が家の一姫二太郎
一姫二太郎ってどういう意味だと思います?私はずっと「子供が三人いて、一人女の子、二人男の子という組み合わせで産むのが理想的」みたいに思っていた時期がありました。ほんとに頭悪いですよねぇ。正解は…コレ。
ほらほら、これが本当の意味ですよ。私は子育てが随分進むまで、本当の意味を知りませんでした。これ、子育てが初めての人の場合、男の子は身体も虚弱で育てにくいという医療が未発達のころの話なんでしょうけどもね。とりあえず私は、この理想通り「一姫二太郎」を授かったわけです。しかし、無事健康に生まれてきてくれさえすれば、男の子でも女の子でもどちらでもよいというのが、どこも親もほんねではないでしょうか?
我が家の一姫二太郎は、7歳違い。7歳も違うと、もう一人、中間子がいてもおかしくないような感じも受けるでしょうが、結果として姫が生まれてから7年後に太郎が生まれました。私は、三人姉妹の長女です。5歳違いの妹に、8歳違いの妹がいるのですが、やはり年が離れているとよく言われたものです。自分が年長の長子であるということは、第一子としての恩恵は多いのでしょうが、恩恵の後には下の子のお世話という、子供らしからぬおまけがついてくるということでもあります。お陰様で、私の場合、両親の不仲も手伝い、私はこよなく愛する妹たちの世話をたくさんを焼きました。私がやらねば誰がやる!…そう、だから、妹たちの成長のあと、「子供の世話はもうお腹いっぱい」と20代の私は考えていました。それも相まって「子供嫌い」の私が出来上がったのだと言っても過言ではありません。
28歳、新婚一年が過ぎた頃、第一子の姫を妊娠しました。29歳出産。
12時間かかって生まれてきた子供でした。くしゃくしゃの顔なのに、少し彫が深く、くっきりと刻まれた二重瞼。旦那の顔を知らない看護師さんは言いました。「お父さんは外人さん?」と。いえいえ、姫は旦那にそっくりではありましたが、旦那はバリバリの日本人でございます。
そして、出産というものはとても痛かった。後から病院に駆け付けた旦那の顔を見たとき、あんまりにも小憎らしくて、「もう二度とごめんだからね」と八つ当たり気味に吐き捨てたのを思い出します。
姫はとても愛らしく、育てやすい子供でした。子供嫌いだと思い込んでた自分ですが、自分の子は違うものだと実感しました。
それでも、一人っ子でいいと考えていました。しかし、姫が幼稚園に入園すると、旦那が言い始めたのです。「もう一人ほしいなぁ」と。しかも、説得するように「俺もね、二人兄弟でしょ?あなたも三人姉妹でしょ?やっぱ一人っ子よりきょうだいがいたほうがいいと思うんだよね?あなたも姉妹居て良かったって思ってるんでしょ?」と畳みかけてきたのでした。確かに妹たちは何を差し置いても姫の次に愛しい者たちです。守ってあげたい存在でした。友達の代わりにもなるし、友達以上に居心地もよいし、自分が一人っ子ならよかったなどと思ったことは一度たりともありません。だからと言って、もう一度最初から子育てをするのにはかなりの勇気がいりました。女きょうだいで育っている私は男の子という生き物の生態がわかりません。姫は私の妹たちの更に妹のように育ちました。姫が生まれたとき、末の妹は二十歳を過ぎたばかりでしたしね。そこへ、例えば次の子が男の子だった場合…と考えると、二の足を踏みました。どう育てればいいのかサンプルがないのです。しかし、旦那の強い要望もあり、第二子を!と決意したのでした。
36歳。陣痛が始まってから、朝、姫を学校へ送り出し、旦那を会社へ送り出し、洗濯を済ませ、それから私は病院に向かいました。二人目というのはずいぶん気持ちが楽なものです。右往左往していた姫の出産時が嘘のようです。病院に到着してたったの二時間で生まれてきたのが太郎です。お腹にいたときから男の子ということはわかっていましたので、男の子を生む覚悟はできていました。生まれてすぐに看護師さんに見せてもらった太郎の顔は、やはりくしゃくしゃながら、私の父にそっくりでした。…ということは、太郎は私に似ているということになります。
太郎が生まれたのは、姫が小学校に入学したばかりの夏のことでした。
子供にしては整った顔をしていた姫に比べ、太郎は今にも落ちそうなほっぺたに、奥二重の目を思いきり垂れさせてニカーっと笑い、その顔は愛嬌たっぷりで私に癒しをくれました。7歳違いというのは、一人っ子を二回育てているような感じに思えました。二つ三つ違いだと、一度に二人世話しているような感覚になるでしょうが、さすがに7つ違いだと、上は朝になれば自分で学校へ行くわけですし、その間は下の子にかかりきりでいられる利点もありました。もちろん、上の姫のことも、太郎が生まれるまでの7年間、一点集中で彼女だけを見て、彼女だけのためにパパやママは存在しました。そして太郎へは、姫が学校へ行ってる時間、じっくりと太郎一人に向き合う時間を取ることができました。二人とも、幼少期を一人ずつ丁寧に育てることができたと思っています。
ただ、旦那に生き写しのような姫の顔。私の家系の造作である太郎の顔。実の姉弟とはいえ、まったく顔に共通項のない他人のような二人です。
あ、因みに、いまだに私の子供嫌いは続いており、我が子以外にはまったく惹かれるものがありません。
姫と太郎の現在
姫は慶応大学を卒業してから4度目の夏となりました。慶応大学には三田会という集まりがあり、OGやOBの繋がりが深く、そういうものをガンガン使っていけば就職も有利に運ぶだろうと思っていたところ、就活時期にコロナが大流行しおうち時間が長かったということもあるのかもしれませんが、4年生になっても慌てている様子もない姫でした。(内心は焦っていたのかもしれませんが)
姫は、自衛隊の幹部候補生学校へ入校しました。防衛大学卒業の子は幹部候補生学校へ直通なのですが、一般大学を出た子にもチャンスはあり、テストや面接で合格するとこの学校へ入学できます。それに合格したので、まずは広島へ旅立ちました。その後、晴れて幹部になりましたが、丸三年経った今年の三月末をもって退官いたしました。
まず、慶応大学出身で自衛隊に入隊すること自体が、大変レアなことだと思います。ただ、彼女には彼女の動機というものがあり、それはこののち改めて書こうと思います。
退官するのは決まっていたのですが、退官後に何をしようかと考えていた姫は、アイルランドのワーキングホリデー資格に応募しました。なんと、アイルランドは年間800人という少ない枠だというのに、応募が通ったのです。応募資格は18歳から30歳まで。滞在期間は1年まで。退官後、二か月で今度はアイルランドへ旅立ちました。一年は帰ってきません。まだ自分探しをしている途中なのでしょう。夢は、自分の店(酒場)を開き、一期一会を大事に生きていくことのようです。
太郎の今といえば、慶応大学在学中。大好きな将棋と海外インターンに向けての準備におおわらわ。塾講師のバイトも順調。夢は、自分で塾を開くこと。
姉をリスペクトしすぎている太郎は、姉の背を負い慶應へ入り、姉の背を負い同じサークルに入り、姉の背を負い海外渡航へ向けて頑張っています。
憧れていた姉に追いついたのに、太郎はずっと姉をリスペクトとし続けています。
私たち夫婦といえば
ここで私たち夫婦のことを少しお話しておこうと思います。
「子供が二人とも慶應??お父さんが頭いいの?お母さんがいいの?」なんてよく言われたりするのですが、残念ながら私たち夫婦は大学生活というものを知りません。大学に通ってる人は、それだけで頭のいい人だと信じ込んでいましたし、いわゆるFラン(ボーダーフリーと呼ばれる大学)なんていう言葉も最近覚えました。正直、身近に大卒の友人もいませんでした。
元カレの中には、大学生もいましたが、部活やってアルバイト必死にやって…みたいなイメージしかありません。というか、相手の学歴すら気にしたことがないので、果たしてちゃんと高校を出ているのかすら気にしていなかったといえるかもしれません。大学の優劣などといえば尚更あずかり知らないことでした。
私も旦那も、偏差値が50に届いてるか届いていないかの公立高校出身で、私は高校卒業した後は時代柄「フリーター」と呼ばれるような人生を謳歌しており、旦那はとりあえず大学も行けそうにないしやりたいこともないし、専門学校行っとくか!くらいの勢いで調理師専門学校へ一年間。
バブルの匂いをほんのわずかの間嗅ぎ、日本が浮かれて浮ついている時期にばんばんお金を使い遊び惚けていたという印象です。
バンドにバイク、私たちの10代はそんなことに明け暮れており、勉強や学習からはかなりかけ離れた位置にいた気がします。
私は、何の資格も免許も持ち合わせていません。仕事につながるようなものは何もありません。高校もかろうじて卒業できた口です。旦那は、調理師専門学校を出た後は有名店で寿司職人をしていましたが、三年後には別の会社へ移り、そこから30年以上同じ会社で調理の仕事をしています。
ですので、子供が慶應大学に進学するとか、またはそんなことがあるなどとは露ほども思わなかったことで、まさに青天の霹靂なのであります。
子供たちのお友達の親御さんは皆さんご優秀で、正直「こんな親で恥ずかしいよね?ごめんね」という気持ちもあったりします。
でも子供たちはにこにこして答えます。「ううん、板前ってね、結構レアなんだよ?それにみんな、いいなーって言ってくれるよ。おいしいご飯に、お寿司が家で食べられるんでしょ?めっちゃいいじゃん、って。」と。
優しい、よい子に育ってくれたと思います。私たちは勉強は教えられなかったけれど、勉強する子に仕向けていくことに少しだけ長けていたのかもしれません。それを、noteに残そうと考えています。
「命の洗濯」それとも「人生の夏休み」
『大学生の四年間は、人生の夏休みっていうんだよ』と教えてくれたのは、大卒で海外留学もして、結婚後も英語のティーチングをしているママ友さんでした。私の中で、その言葉は忘れられない言葉となりました。そのころは
まだ、姫は小学校高学年、太郎は幼稚園にも入園していませんでした。
忘れられないけれど意味が分からない、そういう言葉でした。
しかし今なら、その言葉の意味は分かります。そして、心からその通りだと思います。
人生100年時代、その中で体験する4年間の夏休み。そう表現する理由も後々私なりの解釈で書いていけるといいのですが。
本日はここまで。
また徒然に続きを書いていこうと思います。
ではまたEpisode2でお会いしましょう。