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伝えることの技術

喋ると言うこと。

人は言語情報によって社会生活を円滑に進めます。
言語とは違い、国々で使用するものは違っていますが、伝え方のポイントはどの言語であっても同じではないでしょうか。

まず明確であること、論理的であること、音声又は文字情報として伝えること。
この三点に関してはどの言語であっても変わりはありません。

人の言語発達過程を見ていくと、始めゼスチャーから始まります。そこに音声が載って相手に意思を伝えていくのです。
実際、スペイン語を知らまいまま、スペイン語圏で生活をした時にそれを体験しました。
言語と言うものは面白いもので、不自由なものであっても、コミニケーションは取れます。
しかしそれは限界もあるのも事実です。
子供の時は伝わりきれない時は癇癪を起こし困らせる事も多々あるので分かるかと思います。

家庭生活では、母親に、「飯」「風呂」「寝る」と言うプアな単語だけで会話できますが、社会のなかにあっては、全く通用しない事は当然ですね。

人は社会に於いて生活をしているので、その社会で生きずに、山奥にだけ住んで、人と接点を持たなければそれもいいのでしょうが、それを本気で望んでいるものは極々僅かではないでしょうか。

先日、塾講師の中にプロの声優がおり、その音声について実際に、就活状態の講師に講義をしてもらいました、話し方というか伝え方のプロというのはやはり違うものであると再認識いたしました。
普段意識をしていない「話し方」特に「伝え方」というのは奥が深いと改めて感じたものです。

同じ事を言っても、相手に伝えた時に受ける部分が全く違うのです。
これはある意味学問の教え方と同じで、技術を伝える事、能力を伝授することにも必要なものです。

子供は、大人の話を全て聞いても理解はできません。そのため、音によって重要な部分とそうでない部分を聞き分けます。その上で、自分の言葉に直し、その話のコアを掴み取ります。伝え方を間違えると、子供の能力にも大きな影響を与えるのです。
なんとなく、読解するべく能力の先天的な差が生まれる瞬間ではないかと思います。

この伝え方は誰にとっても重要で、普段は置き去りに考えて生活していますが、その伝え方をしっかりと口という器官を使って音として伝える能力はやはり社会人としてとても重要な事だと再認識させてもらいました。
そして声に乗った感情などが、相手に影響を与える事は間違いはありません。
日本は古来より口に出した言葉をかなり重視する文化があります。音霊という言葉があるくらいこの、伝えた事に責任を持つ文化なのです。それがゴニョゴニョした声では相手に対して不明確な態度を取るとなり、とても失礼な事なのです。

日本語に限りませんが、東アジアの一部の言語は、この声という音に意味をなしているのです。その声をまず学ぶ事はありません。その専門機関しか学ばないのです。不思議な事です。
誰もが知っていて知らないという状態ずっと続いているのです。