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教育格差を直視する

こんばんは、今日もお疲れ様です。

今週、教育問題に関する2つの記事がアップされたので、そのことについて考察してみました。

教育格差を容認してしまっている日本人

1つ目は、橘木 俊詔(たちばなき としあき) 京都女子大学客員教授、京都大学名誉教授による東洋経済オンラインのこちら。

「家計が教育投資できるか否かが子の将来を左右」というサブタイトルがついてます。

まず、「ベネッセ教育総合研究所・朝日新聞社「学校教育に対する保護者の意識調査2018」より、以下の調査結果が報告されています。

2018年時点では、(筆者追記:「所得の多い家庭の子どものほうがよりよい教育を受けられる傾向をどう思うか」という単刀直入の問いに対して)「当然だ」と回答した人が9.7パーセント、「やむをえない」と回答した人が52.6パーセントで、その合計は62.3パーセントであった。日本人の親の過半数が、教育格差はあってよい、あるいは教育における機会平等は達成されなくてよい/やむをえない、と判断していることになる。
ここで重要な情報は、2004年時点でそう考えている人は46.4パーセントであり、その後の14年間で15.9パーセントも増加したことである。教育における格差を容認する人が、かなりの勢いで増加しているのである。

(筆者注:「15.9パーセント」だと、「15.9パーセントしか増加してない」とも言えるので、ここでのポイントは、この16年間でついに過半数を超えた、という点でしょう)

掲載はしていないが、この調査では次の2つの気がかりな事実についても報告している。第1に、経済的にゆとりのある人、父母ともに大学卒で大都会に住んでいる人などが、教育格差容認と回答している人の多数派であったことである。

(筆者注その2:「2つの気がかりな事実」と書いてありますが、読み進むと、そのさらに次の3つ目の事実が最も気がかりであることに気付きます。)

逆に経済的にゆとりのない人や、父母ともに非大学卒で中小規模の市・町・村に住んでいる人などは、教育格差は問題であると回答していた。自分の境遇に恵まれている人ほど格差を気にせず、恵まれていない人ほど気にするとも解釈できるので、当然の結果かもしれない。

今後の日本社会の貧富の格差が、拡大すると予想する人が圧倒的に多い

だが次の第3の事実はどうか。それは「今後の日本社会はどのように変化すると思うか」という質問、具体的には「貧富の格差が拡大するか」という問いに対して、「とてもそう思う」「まあそう思う」の合計が85.0パーセントに達していることである。つまり、日本では今後も格差社会が進行すると予想する人が圧倒的に多いのである。

引用しておいて突っ込んですみません。
最後の、この第3の事実は深刻です。
この流れを変えられるのは、政策です。
為政者は、これを放置してはいけません。
法の下の平等を維持する努力を為政者が怠ったら、そして有権者である国民がそれを許容していたら、それは民主主義国家ではなくなります。

橘木教授は、以下の様に続けます。

これらから見えてくるのは、結果の格差も機会の格差も気にしない人が多数派になった日本社会の姿である。少なくともこれまでは、とくに教育に関して経済条件の差によって子どもに格差が生じるのはやむをえないという声は小さかった。
むしろ日本人の多数は、できればすべての子どもに平等な教育を与えるべし、と思っていた。だが、それすらない時代になってしまった。
自明のことだが、よい教育を受けることができれば、よい職業に就ける確率が高くなり、高い所得を得られる可能性が高まる。逆に言えば、よい教育を受けられない子どもは、よい職業に就ける確率が低くなるため、高い所得を得られる可能性が低くなる。
なぜ日本は、子どもの教育について結果の格差はともかく、機会の格差まで容認するようになってしまったのだろうか。以下に筆者なりのいくつかの仮説とコメントを挙げてみよう。
第1は、日本人の親は自分の子どもだけに関心を持っていて、他人の子どもはどうでもよいと思っている可能性である。あるいはそこまでではなくとも、社会全体の子どもまでは関心がほとんど及んでいないことが考えられる。
第2は、親の所得の多寡にかかわらず、能力の低い子どもにいくら教育投資しても、学力が高くなって有能な人に育つことはないと信じている人がかなりの割合でいる可能性である。
第3は、所得の低い親は自分が生活のために働くのに一生懸命にならざるをえず、子どものことまで考える余裕がないということである。
子どもの貧困率が高いのは、結局のところ親の貧困によって生じる現象である。その親は、さらに自らの親(すなわち祖父・祖母の世代)が貧乏だったので高い教育を受けられず、結果として貧困に甘んじざるをえなかったのかもしれない。こうして、結果の格差と機会の格差が世代間で連鎖していく。
以上をまとめると、日本人の多くは自分の子どもに対する私的な教育投資には熱心であるけれども、それを社会全体に還元することには関心をあまり持っておらず、また一部の低所得の親は私的な教育投資を行う経済的な余裕すらない、となる。
教育機会のない人への教育費支出の増加策は、国民一般の教育水準、あるいは生産性を上げるので好ましいという意見があるし、筆者もこれに賛成である。
しかし、能力がそもそも低い子どもに教育費をかけても、効果が期待できないのであれば、国家がそこに多大な教育費をかけるのに反対であるという意見は根強い。残念ながら、教育の効果を社会全体で享受するのではなく、教育投資をした人、あるいはそれのできる人だけが享受するものだと考える人が多い、ということである。
子どもの貧困をなくし、教育格差を小さくしようと考えるのならば、教育への政府支出の財源を確保する余裕を持つようにしなければならないだろう。なぜなら能力がそもそも低い子どもであっても、教育によってある程度の効果が見込めるということが、数々の研究によって明らかになってきているからである。

そして、橘木教授は「教育への政府支出を増額する余裕を政府がもつには、まずは低成長経済からの脱出が肝心かもしれない。」と結んでいますが、肝要なのは財源を確保してただ政府支出を教育に無条件で配分するのではなく、具体的に何を実施していくのかをきちんと策定していくことです。

日本の付加価値貿易への人材供給について

ここで、教育とは直接関係ないように見える、日本の経済構造について見てみましょう。

私が小学生だった50年前から、わが国の経済構造は以下の様に言われ、いまだにその通りです。

日本は天然資源に乏しく、海外から廉価な原材料を輸入して、付加価値を加えて、また海外に輸出するしか生き残る道はない。

これに加えて、企業の海外移転による産業の空洞化という問題も発生しましたが、それはここではひとまず置いておいて、この日本の付加価値貿易を長期に渡って支え、維持し、発展させていくためにも、人材の育成は重要です。

いや、国民全員を工業高校に放り込め、と主張しているのではなく、将来他の産業に従事する子供達の教育も、しっかり行っていかなければならない、という意味です。
貿易に関わらない業界においても、その業界が構造的に高能力=高給取りの人材を受け入れられないという個別事情がない限り、人材の水準が高い方が望ましい訳ですから。

日本の教育行政

ところが、この経済政策に見合う教育行政で、戦後から現在に至るまで、なにか具体的な施策が実施されてきたでしょうか。
文科省の人には失礼な回答かも知れませんが、答えはノーです。
いや、見えないところ、見えにくいところで細々と実施してきたのかも知れませんね。

例えば、(所管する官庁が違うと云えば違いますが)医者や弁護士を養成するのは、広義の教育ですね。
医師が患者のために働いてくれるのは、教育の賜物でしょう。
弁護士が困っている人のために働いてくれることがあるとすれば、それも教育の賜物でしょう。

そうでない、問題をしでかす人をたまに報道で見かけますが、その人達を発生させない手立てとかも、必要です。

例えば、今日のニュースです。

歯科衛生士を差別し、自分より身分が低いと格差を作り、医師が高みからパワハラを加えるなど、許されることではありません。

こうしたパワハラ医師の再発防止策は、民間企業だったらハラスメント防止のための社員研修を毎年やってますが、医師に対してだって、同様の研修をやらなきゃダメですよね。

(と、私が言ってることを、読売新聞のこの記事書いてる人がまず気付いて、この三重県桑名市総合医療センターでは、日頃どんな研修を医師達に対して実施しているのか、突っ込み取材をかけなければいけないところです。
そして、まさに、新聞記者がハラスメントに対する認識を正しくもつことができるように教育しないといけませんよね。
新聞社だって民間企業なのに、ハラスメント研修を毎年ちゃんと実施していたら、こういう見逃し方はまさかしない筈。)

そして、歯科衛生士さん達も同様のパワハラ研修を受け、パワハラを受けたらすぐにそいつの上司に報告するとか、言っても埒が明かないようだったら告発する窓口を常日頃確認しておくとかすれば、それぞれが退職に追い込まれる前に、もっと早い対処が可能だったかも知れません。
研修費用をけちると、大事な医療現場から人が逃げ出してしまいます。

抜本的な解決策、というのは一朝一夕には作れませんが、まずはこうしたことから詰めて行くべきかと思います。

ちょっと長くなってしまいましたので、もう1つの記事は別の機会に紹介させてください。

では、また明日。



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