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映画「理由なき反抗」をふたたび

とても久しぶりに映画『理由なき反抗』を観た。大好きな『ラ・ラ・ランド』で二人が映画館デートで観る1955年のフィルムだ。

私が初めて観たのはたぶん、1975年ごろ。そのときすでに、「ジェイムス・ディーンが高校生に見えない」とか「こんなに純粋に親に反抗しているのは、逆に不良には見えない」とか、11歳くらいの私は感じていたけれど。(でも私は大のジミーファンで、お小遣いで買ったモノクロのポスターを子供部屋のドアに貼って、同じ部屋にいる6歳下の妹に毎日熱烈に語るから、彼をはじめは“おじさん”だと思っていた妹まで、ファンにさせた記憶がある。※撮影時のジェイムス・ディーンは24歳。)

そこからさらに40年以上経ったいま、ファッション史の授業などでではなく、(DVDではあるが)じっくりと鑑賞した。

そこで感じたいろいろ。時代の変化と共に、この44年間に「常」と思う多くの事が、
少しずつ少しずつ、自分の中で変わってきたのだなーと、驚く。時間の経過って、ひとの感じる軸の変化って、すごい。改めて、自分の中に歴史、といえるほどの時間を生きてきたのだという、はじめての「感じ」。

まず、出てくる不良たちの服装が、とてもきちんとして見える。アメリカでも寝るときはパジャマを着ているし、部屋ではガウンだ。この44年間にどれだけカジュアルダウンしたのだろう。言葉遣いを原語で聞き取れないことが、とても悔やまれる。

次に、子供の心が抱える問題は、どんどん内にこもっているのではないか、とも感じた。1955年とは一般には、子供が親に反抗するということが無かった時代。未来を予感できる映画人たちが、ようやくテーマとし始めた頃。映画の中では、おばあちゃん、両親、自分の間に、「幸福」への価値観の違いが描かれている。同じ場面で感じることが違う、というのは今も同じ。その違いを言葉で言い合っている、そのことがとても健全に感じた。(ラストに向かって、悲惨となるが)「言いたいことを言う」のが、ずっと難しい時代になっている気がする。SNSの日常化で、さらに困難になるのだろうか。暇なことが「悪」を生み出すのは、家電の発達や学校制度とも関係している。暇な時間が無いくらいに、やりたいことに熱中することが、みんなにいいこと、と思ってしまう。

家の中にプラスチックがない。牛乳だって瓶だ。そう、この映画は「不良高校生」を扱ってはいても、1955年のもの。60年代からいままでの60年間で、どれだけのプラスチックが生まれたのだろう。

上手く生きようとする親に向かって「一度は正しいことをしたい」という反抗児の言葉が、とても響く。母に向かって「お父さんと話してください」という言葉も。その後、暴力にでるあたりは、子供なんだが。これから来る人間界の問題をよく言い当てている。

そして誰もが、話を聞いてほしい、と思っていることは、いまでも変わらない。愛してほしいと思ってきたけれど、愛するひとに出会ったとたん、愛する方が幸せなのだと気づく。
今最も、大事なことだ。

子供の頃、何度も観た映画が、44年後にいろいろなことを考えさせてくれた。長く生きた証拠のような感動。名作は、何度みてもいい。

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