百人一首の深い愉しみ 第2章の4

 先日、クリニックで患者さんの知人が自殺したことを聞いた。患者さんは、会社での新商品の企画を担当しており、最近かなりハードなスケジュールで仕事をしていた。そのため、不眠傾向が見られ、クリニック受診になったのだが、患者さんの知人はその部署での先輩にあたる。先輩は新商品開発に向けてかなり精力を注ぎ、患者さんも同じグループで協力していた。その新商品開発のプレゼンが社内であった。新商品開発のプレゼンは別グループの人と2人で競われたが、その結果、採用となったのは別のグループの企画であった。
 当初、敗れた先輩も「仕方ない」と割り切っており、結構冷静に対応していたというが、事前の評価は彼のほうが断然高かったらしい。患者さんもグループとして半年かけで頑張ってきた。そのため不眠傾向を感じ、彼女は早めにクリニック受診していたのである。
 プレゼン直後は、担当したグループが皆で協力してやり遂げたことに目標達成感を感じ、気分よく打ち上げパーティーに出かけたという。先輩も「これだけやったのなら負けてもいい」と何度も口に出していたが、本音は「必ず勝てる」という心積もりであったのであろう。実際、社内でのプレゼン後の評価も、先輩の企画に決まるだろうと、大方見られていた。しかし、蓋を開けてみるとそうはならなかった。内容は良くても、根回しが足りなかったなど、よくある推察が部署内でもなされたようである。こうしたことはよくある話であろう。
 プレゼン後はやれたという実感を噛み締め、結果発表後には、「ダメだった」という落胆、そして愕然とした喪失感、それでも時間が経つうちに仕方ないという割り切りをしていく。こうした気持ちの変容は、心理反応の中で通常のパターンである。課題遂行の失敗後に1人で過ごしていると、時間の差はあるが、経過の中で自然に落ち着く。試験に落ちた際の心理パターンと同じである。しかし、ここに外部から多くの撹乱した情報刺激が入ってくると、困惑が生じる。
 今回は、当事者が「仕方ない」と割り切っていても、外部から「事前評価が高かったのに結果はおかしい」とか、「相手の根回しがあったからだ」、「相手は部長の親族と友達だ」とか、「以前、付き合っていた彼女が悪いことを言いつけたのだ」など、尾鰭を付けた様々な噂が彼の耳に入ってくる。こうした状況下にあると、自然な心理変化パターンで精神状態は収束せず、自責感や自己否定、他責感や猜疑などが湧き上がり、抑うつ状態へと展開していく。
 こうなると、ほかの状況と同じように、負のスパイラルに陥っていく。自己の置かれた状況認知から、抑うつ感となり、それによって身体的不調をきたし、会社を休みがちとなる。そうしたスパイラルが加速度的に進行すると、周囲の状況が一切見えなくなっていく。外界を見て判断する際に、眼前のシャッターをどんどん自ら閉めていく状況に等しい。究極に見えてくるのは、自己が無能な人間で全く存在の価値がないといった図式であり、「生きている資格が無い」という全く自己勝手な結論に陥っていくのである。
 うつ状態からの自殺がこうした状況認知によることが、最近流行している認知行動論からも指摘されている。うつ病と自殺という現在社会の中での基本的病理構造とも言えよう。

 百人一首の四十一首に、「恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人しれずこそ 思ひそめしか」という歌がある。

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