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銀座東洋物語。1

 そのホテルは銀座の一丁目一角に高速道路の高架に寄りかかるように立ち、十三階建ての細い体からはルービックキューブのように建て込んだ銀座の小さな老舗の店舗たちを上から臨むことができた。どれも小さなビルだったが、それぞれ江戸指物だったり、真珠店だったり、陶器や真鍮店、呉服・・・、さながら日本工芸品のショールームのような店が結集していた。

 イギリスからやってきたGeneral ManagerのMr.Churchは、正直、明確な仕事を与えられず退屈そうだった。38平米の部屋の窓から始まって久しい銀座の再開発の様子を日長ながめた。
 古い土地に新たに鉄筋を埋め込む作業は、このビルにも振動をつたえた。それは地震のない国からきた総支配人に地震を連想させ恐怖に直結した。日本着任直後だったらわずかに揺れだけで、横浜の自宅に電話して家族の無事を確認したが、今はそこまですることもなくなった。
 小学一年生の息子はインターナショナルスクールに通い始めたばかりだ。ドイツのフラッグシップ、ルフトハンザのスチュワーデスだった奥方は英語が堪能で、ヨーロッパで英語の能力を示すには当時一番有力だったケンブリッジ検定のプロフィシェンシーテストの合格者だと、GMは自慢する。
 「簡単なテストじゃないんだよ。論文もあるし、ディベートもある。それもきちんとしたバックグラウンドがなければ回答できないような内容を扱っているんだよ」
 奥方の自慢をこれほどはっきりする大人を初めて見た気がした。彼はインターコンチネンタルホテルのロンドンにいた。FBの仕入部長を長年してきたという自負がある。
 「僕の一家は、学者と医者の一家でね、僕はハグレモンんなんだよ」
 そういうけれどMr.Charchは全然なんともおもっていないようだった。それよりもホテルの仕入れ部に配属され、服を汚しながら枝肉を担いで何度もキッチンと納入口を往復したことを誇らしく思っている様子だった。そして美しくも頼り甲斐のあるドイツ人妻と、四十を過ぎてやっと授かった可愛い息子は歩いてきた人生の成果に思えた。

 東京で西洋人を見かけるのもずいぶん当たり前になってはいたが、まだまだ珍しい時だった。わずか三十年前のことである。三十年前は戦後としての復興が終わり一見華々しい日本らしい経済が軌道に乗ったように見えた時期だった。暗かった時代を忘れようとするかのように、これまでの習慣の延長線上にある贅沢からはかけ離れた浪費や、地に足のつかない資産運用などが当たり前になりはじめていた。
 このホテルはグループ企業の迎賓館として開業した。当時ホテルといえば日比谷公園近くの老舗や国会議事堂近くがホテルの筆頭として思い出す。前者はクオリティーもホスピタリティーも超一流で、民間の迎賓館とも呼ばれていた。格が高く学生などがデニム姿でおいそれとは入れない。一歩踏み入れれば落ち着いた中に永年にわたって培われてきた職人技的おもてなしの粋が詰まっていることが手に取るようにわかった。お見合いなんて、今は話題にも上がらないあれも、そのホテルでということなら足が向く、それほどの場所だ。
 後者は、華と咲いた日本経済を謳歌するためのようなホテル。傅かれることに慣れない客を相手に、新しいトレンドの料理やお酒をファッションとして楽しみ、丁寧に提供され作り出される環境を謳歌するホテルだった。多くのロマンスや浮世が流され、ゴシップや醜聞も起きた場所だ。それが悪いというのではなく、そういう非日常を提供する『舞台』だった。

 その二波のトレンドの中にあって、銀座東洋は、異質だった。なにせコンセプトにあったのは、日本の旅館のおもてなしだったのだから。
 それを象徴するのは、ホテルに就職以来数えきれないほど教えられてきたHotelの語源だ。ホテルは、ホスピタリティから来ており『おもてなし』とか『歓待』とかいう意味があり、英語の病院(ホスピタル)と語源が同じだというのだ。三十年たった現在は、ホスピタリティーは珍しいことではなく、むしろ商戦で勝つためのツールかもしれないが、あの頃はそうじゃなかった。目に見えないサービスに価値を見出してはいなかった。
 そこが迎賓館をつくろうと考えた日本のセレブリティーの発想なのだと思う。戦後まもない日本から若い頃から自由に飛び出し、自分の目で体だ見聞きし感じたサービスの世界を、それも日本らしい西洋型ホテルで具現化しようと考えた代表の発想は、崩壊直前まで膨らみに膨らんだ浮草経済の中にあって異質だった。料金設定も、客室一部屋に対する従業員の数、予約の取り方も、全て前例のない特別だった。

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