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映画 『Times Square』に想う

自分の趣味、カッコよく言えば「審美眼」、それが確かだったかどうか、そんなことが若い頃からずっと気になっていた。たぶん好きになるのものが偏っていて友人に同調してもらえなかったからかもしれない。

 前回書いた映画の『台風クラブ』は当時は言葉にできなかった『何か』が自分に何かしらのインパクトを与えた。そのせいで今も記憶に残っていて時々あれはなんだったんだろう、などと当時の若い自分の心に思いを馳せたりする。
 でもそれが、依然として言葉にはできないのだけど、誰かも同じように感じていて逝去した監督のメモリアルとして再上映されたりすると、自分の審美眼、それとも感性も何某だったのかとか、捨てたもんじゃないかったとか、顔の見えない誰かとパーセプションを共有できたかと思うと嬉しい。『台風クラブ』のことを書くための下調べにも新しい日付で出てくるのには、いまだに自分も錆びていない気がして嬉しかった。

 その記事に、高校生だった私が恋焦がれたが、その頃はレンタルダビデオ屋が町になくビングできなかったと引き合いに出した映画がある。『Times Square』というアメリカ映画。市長の娘と荒れたダウンタウンの少女が偶然から意気投合し反抗とアドベンチャーを繰り返すストーリーである。現代ではそうではないかもしれないが、当時おさだまり感の強いストーリー構成だがそれを繋いでいる音楽が素晴らしかった。
 グルーブ感という言葉があるが、当時何も知らない私が感じたインパクトは40年以上たち、グルーブという言葉を知ってやっと自分が遭遇した音楽にぴったりの言葉を見つけた気がした。
 ラジオはそんなふうに新しいものも古いものも、いや、現代はそういう括りはないのかもしれない。不意に私のgroove感を象徴する『Times Square』の一曲がパソコンのラジオアプリから流れてきたのだから驚いた。嬉しいのなんのって。あの頃、友達の誰に話してもなかなか理解されなかったモカコーヒー色の煙ったい音楽が、今という時の切符を手にしたようにふわりと現れた感じだ。
 それを機会に、サウンドトラックを聞き直した。多少ゆっくりめに感じる。でもスピード以外はどれも今でも新しい。擦り切れるくらい何度も聞いたレコードを見てビデオのなかった時代私がどうやって映画を記憶に留めていたか思い出した。

 そのカセットテープは案外すぐに見つかった。
 転職を繰り返すたび、引っ越すたび、荷物はいつもスタメンになるよう揃えていた。本もレコードも、カセットも。そうやっていつでも自分が機嫌良くなれるためのグッズを整えるのが習慣になっていたから。私だけじゃない、みんなそうだった。そのお気に入りを交換する。特別な友人にはそうしていた。
 カセットはその中にあった。鎌倉の社頭で買った和紙の上に半紙を被せそこに丸文字でTimes Squareと手書きしている。母が遺していったカセットプレーヤーを引っ張り出して再生した。ガサガサという荷物を探るような音の後、映画はくぐもった音を立てて始まった。

 そう録音していたのだ。

 今ならあの赤色灯ヘッドのパペットが思い浮かぶように犯罪だと、強い言葉で諌められてしまう。でもあの頃、録音しようと考える人すらいなかったに違いない。著作権の知識も罪に意識もなく、高校生の私は大好きな映画をクリスマスに買ってもらったポータブルデッキを持ち込み録音した。あの格好いい不良のニッキーみたいに英語を喋れたら、パールみたいなお嬢さんとニッキーの喋り方はどうしてこうも違うのか、そんなことをなん度も聞いては自分も音の中の一人になった気がしていた。

 このカセットを貸した友人が一人だけいた。
 高校時代を暗黒時代にしたのは、自意識が異常の強かったせいだった。他人が見ない映画や本、そういうものをわざわざ選んだ。自分は特別と思いたかったのかもしれない。そういうものに浸っていると、誰かと共有した時のちょっとしたパーセプションの違いとかが気になる必要がなかった。自分は自分の世界にだけ浸っていればいいのだから。
 でもTimes Squareは、パールとニッキの友情の話だったから、私は自分にもそういうイリーガルな友情が欲しくなったのだった。アッビは高等部から入ってきた子で、国立のなんとかっていう中高一貫を途中で退学してまでうちの学校に来たがった子だった。最初の自己紹介で教壇前に立ちアッビがそう言ったのだから本当だ。その後すごく後悔していたけれど、40年以上経っても忘れていない人間がいるとは、考えればアッビにとって不便な話。
 共学校から女子校にやってきたアッビは裏表のない快活なやり方でアピールをしてきた。文化祭や委員会に興味があれば手を挙げたり、意見を言ったり。それはとてもいいのだが、女子校には女子校の流儀みたいなものがあって、それは実はあんまり歓迎されない。
 それにアッビが気づいた頃、Times Squareの映画が封切りになった。同じ制服を着て、同じ教室に座っていてもどこか彼女は浮いていて、それでいてちゃんとしていた。その彼女のファイルケースを飾っていたのが、Times Squareのチラシだった。私は嬉しくなって録音した音源があることを話すともちろん貸してという。反抗娘と箱入り娘の話は私と同様彼女の胸にも来ていた。
 カセットの貸し借りにとどまらず、あの後は彼女のすむ官舎にお邪魔して、二段ベッドでいっぱいの子供部屋の狭い隙間でジャンプしながらテーマ曲を歌い首を振りまくった。ヘドバンという言葉はあの頃なかった。

 世田谷のあの地区には国研や政府関連の官舎が多かった。今思うと、アッビが何を感じていたか、想像がつく。大人になり母になり、子供の時はわからなかった目線であの頃の自分を見る。すると自分で選んだはずの未来はやはり誰かの思惑の延長線上だったことに気づく。同じ地区の、さほど遠くない住宅地にも、同じように沸々とした反抗心を抱えながらそれを大人になってから歌を読むことに昇華させた人がいた。子供時代は、鬱屈していていいのだ、そう思う理由の一つだ。

 Times Squareと手書きのカセットケースを見つけた息子は珍しそうだったが、妙に嬉しそうに自分の部屋に持って行った。それから他にないの?と言うから、サウンドトラックのLPを見せたが、うちのプレーヤーは壊れていて使えない。残念だね、と本意で言っていた。

 それから半年後、J-Waveを聴いていたらメローな曲が流れてきて、すぐに映画の中で流れていた曲だと分かった。
 40年以上経って青かった私の反抗期が市民権を得たような気がした。反抗期自体はまだ癒えず、アダルトチルドレンであり続けているけれど、あの時良いと感じた音楽の趣味は確かだったと自信がついた。

 先週同窓会があった。
 還暦にもなると、学生時代の暗くてざらざらした思い出はすっかり丸くて甘いものになっていた。
 だから、今、反抗期をエンジョイしている若い方々、そんなのやめて、うん、少なくとも同朋、友達とは甘くて楽しい青春を送ってほしいと思う。


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