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【不機嫌日記】益子の濱田に救われる

呼び捨ては失礼だ。人間国宝 濵田庄司御先生のことである。

前々回、花粉症のことを書いてから一週間と経たないうちにいろんなことがあった。急に左目に大量のゴミが見えるようになり、一箇所ぼんやり暗く見えない箇所ができた。これまでも経験があるものの、ちょうど中年以降の飛蚊症が網膜剥離へ、そしてついには失明へとつながる可能性があるとTVでやっていたので沈澱していた泥が舞い上がるように不安が心を占めていた。

「今年は天中殺」と行きつけの占い師に年明けに言われて以来心の準備をしていたが、目にくるとは想定していなかったので苛立ちすら感じた。眼科にかかると軽い網膜剥離と診断された、さらに不調は不調を呼ぶもので、今度は反対の目に大量の甲虫やらミミズやらが降るようになり、TVで聞いた話を頭の中で繰り返し思い出す始末。飛蚊症については薬もないという。

このまま目が見えなくなってしまったら、大概のことは老後に備えて想像だけはしておいたつもりだが、その想定も叶わないことになる。否応なく焦る気持ちに後押しされ、まだ見えるうちにドライブしましょうと、益子へ出かけた。

それも二ヶ月前に予約を入れていたヘアカットのあとの急な思いつきだ。コロナで弱った鬱にはコーヒーを、それも特別濃いのをちょっと感じのいい暗めの喫茶店で飲みたいという考えが、巡り巡って辿り着いたのが益子だった。

益子はだいぶ前から面白い。ここは子供の時から、何度となく来ていた。1926年に民藝と呼ばれる活動が起こりその象徴的な場所だったし、いつも新しいものと古いのが混在していた。私が高校生のころ、いつもは家族揃って来ていたのを、母と二人だけでペンションに泊まりに来たことがあった。電車でやってきてヒッチハイクしてようやく辿り着いたのは、焼き物の町なのにコンクリの打ちっぱなしの壁に真っ白なベッドカバー、ラウンジにはモダンな暖炉のある芸術の香りのする宿だった。ビーフシチューが骨太な姿の益子焼のお皿で供されたのを覚えている。その感じは今でも古くない。

新しいもの、外から来るものを拒絶しない土地なのだ。海から遠く平らで、肥沃かもしれないが、農業のイメージはあまり強くない。そんな土地はアクセスも良いとは言えないのに、人が集まる。道の駅に立ち寄るとそれがよくわかる。きっと作る人たちのコミュニティがあるのだろう。

突然の思いつきで下調べもしていなかったから、ふと思いつき城内坂を左にハンドルをきる。見上げたところの美術館は翌日の特別展の準備で休館だった。こことはなかなかご縁がない。前回来たときは、コロナの前で、イギリスに陶芸とのコラボレーションだった。近くの喫茶店で招聘されたらしいイギリス訛りのカップルが丁寧な英語を話す若い陶芸家と話をしているのを見かけ、羨ましく思ったものだ。

他にどこか、と調べて濱田庄司記念益子参考館が行きあたった。

写真は、記念館へ入る門の前。門屋敷から、蔵がふたつ。住居跡に、登り窯ふたつ、全部で六つほど部屋がある。それからろくろが並んだ部屋。人気がなくてもすぐに創作が始められそうに整っている。家屋は、濵田が近在の豪農の屋敷を移築したものらしい。だから、伝統的な屋敷の配置というのとは少し違うかもしれない。それぞれ、屋敷門の両側の部屋にも、蔵の中にも古今東西、外国の古い戸棚や椅子、焼き物などが並んでいる。濱田は「負けた」と思ったものを手元に置くことにしていたそうだ。そのことを門屋敷の展示で知る。この部屋の一つで終わると思ったのが、それは次の蔵にも、そしてその隣の蔵にも続き、小高い丘にそって広がる敷地の奥には大きな農家やが鎮座していた。

ずいぶんな、おぼっちゃま育ちなのだ、とほとんど今の自分と同い年の、丸めがねの浜田が、バーナード・リーチと並んで写った写真をみて納得させたが、展示の説明で文具店夫婦の長男として生まれたと知り、自分の早計なのを恥じた。参考館とは、集めた美術品たちが創作の参考になるようにとのいみだった。

大きな農家屋は人が集まる気配を残していて、今も人が来るのを待っているように佇んでいる。広い土間には趣味のいい椅子とテーブルが並び、ひとときくつろげるようになっているらかった。我が物顔に並んだ品を詳らかに見ていると、田舎の親戚を訪ねてきたような背広姿の御仁が鳩サブレの袋を下げてやってきたから、慌ててその場を辞した。

中国かどこかの、家形の骨壷がいくつも並んでいるのをみて、濵田と言う人にとって出自の家はおそらく根っこでしかないのだろう、と思い届いた。つごう4つばかりの骨壷は、洗った骨をお納めるのだと説明がされていて、死んでまで家に縛られるのはどうだろう、と私はちょっと納得が行かなかった。

なにせ、見えなくなるんだから。見えなくなる前にしたいことをしたい、とこうして飛び出してきたんだから。と、置かれた状況を思い出していた。ひとりになるとこうも心が軽く、見えないのに楽しい。責任という愛が重いし、その愛をはたそうとしてきた時間が重いと思った。

門屋敷の反対の小部屋に、土産物が並んでいて面白半分にTシャツを買った。これで二枚目だ。今度のは、『Fifteen seconds plus Sixteen years』とある。釉薬流すのに15秒、その焼き物が60年生き続ける、的な意味。バーナード・リーチが来日して濵田の創作風景を見学した時のやりとりから出た言葉だ。言葉の上でも、濵田と言う人にはくすぐられる。

数々の民芸品は旅をして集めたのか、それを知りたくて切符を切ってくれた女性に尋ねると、古物商から買い求めたものもあるけれど実際に出かけていって買ったものもある、あの時代を考えると大変なことです、と言った。そして『無尽蔵』(濱田庄司著)を出して見せてくれた。

ずいぶんな財産家だったのですね、と言うと、パトロンがいましたからという答え。あの時代は、『君、面白いから、』とお金を投資してくれる、人間力で貸してくれる人がたくさんいましたから、と教えてくれた。

それを聞いて心が若返った気がした。とはいっても、大人になった感覚が今でもない私だから、鬱が軽くなっただけなのだが。それで、農家屋の喫茶室は恩恵を受けられなかったから『次回』来ます、とここに決めて帰る場所ができたと、不肖不精家へ帰った。

それがおとつい、土曜日のこと。夜半すぎ、布団に入った家人をつかまえ、見えなくなる不安をうるさく打ち明けた。すると、まずは沼から出てくださいと、今日、夫に伴われて大病院の診察を受けた。結果、生理的な剥離であって、あまり心配する必要なさそうだとわかった。強度の近視のせいで網膜がメッシュ状に薄くなっているものの、見えなくなる、失明の心配はないだろう。

それを聞いただけで視野が明るくなった。

ゲンキンなものだ。しかし、考えるいい機会になったのは事実だ。家族は重いと思うような使い方をしちゃだめだ。それに、何かをやらない理由を見つけちゃダメだ。年取った、と思っちゃダメだ。

今の私の心は、インフルエンザの高熱の後のように軽やかだ。

人間国宝、濱田庄司の記念館ではワークショップなどもやっているらしい。https://mashiko-sankokan.net/

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