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顕在意識と潜在意識、その始まり。

これは全部フィクション、
顕在と潜在の意識の話。
近頃、そんなことが話題になっているらしい。息子から聞いた話だ。自分は顕在意識に判断を委ねている、という旨の主張。
しかしながら、長年主婦をしていると、主婦的家事労働が常に顕在意識であやつれものではないことに痛感する。そしてあれこれ考えるよりも、ただ手に任せて仕事させる方が料理にしても、掃除にしても、愚直な反芻作業的労働にしても、うまくいくことがわかっている。
そして何よりも、そっちの方が、脳細胞が喜ぶ。脳への負荷が少なく、作業後の疲労度が格段に低く、爽快感すら残る。

さて、これに似た話があって。
意識と意思のことだ。意志は、目の前のコップに手を伸ばしつかもうとするスイッチだとしよう。すると、意識の方は、そこにコップがあると認識すること。そうすると、意識と意志の間には時間的ギャップと筋肉を動かす電気信号のギャップがある。意識してから意志に移るまで、人間の体の中の電気信号の発信・受信の時差が0.5秒程度あるのだそうだ。意識を意識として自覚する前に、手を伸ばしているのであれば、それは潜在だろう。

潜在と顕在をそういう具合にとらえると、同じ作業でも意識としてか意思としてか捉えるのを区別するのはどういった根拠からか。
ニュートンごとく、りんごが木からおちるのを見て、
とっさに駆け寄り両手で受けようと手を伸ばすか、
落ちるりんごをじっと観察し下に引く力の存在に気づくか。

人間を動物の中の長と、持ち上げようと、
とある人間を神格化しようと、
神の掲示を受けたと万物に共通した規則性を発表しようと、
人間の思考を行う脳は、脂質とタンパク質脳でできている。
生まれた時に持ってきた脳は、育つ過程において外的で様々な刺激を受けてその人なりの特性を持った脳が形成される。
しかし、そのおお元は、生死と卵子の結合によって起こること。DNAのみならずタンパク質にもつ根源的な記憶がその人の身体的な好みや生理現象、生存維持のための傾向に記憶されている。

近年、脳を持たない植物にも、タンパク質に記憶を保持している可能性があると言われている。それによって温暖化のための適応とか、落葉のタイミングなどを測っているという。
人間で言えば、生体移植を受けた患者が提供者の好みや習慣を引き継ぐことがある事例が明かされている。
どちらも、細胞が、そのどの成分なのかは不明だが、記憶を保持、あるいは少なくとも傾向や嗜好性を保持していることは確かなようだ。

そうなると、
潜在の意識は、父・母の細胞由来の嗜好性・傾向がハンドルを握っているようだ。記憶や嗜好性は、敬虔で上書きされてゆくから、時に潜在意識に任せる方がうまくいく理由がつく。
こうした時の問題は、父と母のそれが相反する場合である。それがうちなる葛藤の原因になる。
しかし、そもそも、子孫のためのメカニズムには、自分が持たない免疫を所持する相手に魅力を感じるようにできているから、相反するのは折込済なのかもしれない。二つの人格が闘うように感じる葛藤こそが、私が私たる個人として、父母の糸から切り取られる瞬間。
葛藤を意識し、決断することでしか進化はないのかも。

動物や植物はすでに与えられた取り札の中でしか選択できないが、
人間は見る、聞く、感じることで、生誕、生殖後も自らを変えられる、そういう唯一の存在なのかもしれない。

悩み最高。


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