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【小説】水族館オリジン 12

chapter XII : また会う日まで

その日の朝あたたかくて悲しい夢を見ました。

私はどなたかのお葬式にいました。簡素な祭壇には立派な白い菊が覆い隠すようにかざられています。古い日本家屋の真ん中らしく、ふすまに囲まれたその部屋には私のほか誰もいません。細く開いた襖のすきまから、お葬式に集まったひとたちの活気が流れてきます。悲しみながらも忙しくたちはたらく空気とアルコールや食事の匂いがします。どなたのお葬式かしらと祭壇に近づきました。大人になれば、近親の方のじゃないお葬式にも出ることもあります。体を失った魂はとてもさびしがり屋ですから、みんなで見送ってあげなくちゃいけません。たとえ村八分にされた人でも残りの二分で村の行事に参加できるのです。一分は婚礼の儀、そうしてもう一分は葬礼の儀です。私は村八分になったことはないけれど、結婚式とお葬式は全員でお祝いして、全員でお別れするもの。そう知っています。お葬式はとくに本当に今生(こんじょう)のお別れですから、できるだけ沢山の人でさよならしてあげないといけません。また帰ってきてね、また人を好きでいてね、そう思いながら送るのです。結婚が鎮守の神様と村のみんなに宜しくお願いします、の式だとすれが、お葬式は、これまでありがとうさようなら、の式なのです。
私はまだ二十五歳ですがこれまでに幾度となくお葬式には行ったことがあります。たくさんのさよならを見てきました。
こういうのは美しいと思います。感情や恨みつらみの影を消した体からは静かさしか感じられません。

夢の中でも簡素な祭壇の前に横になった方にご挨拶しました。お顔の布をはずす勇気はありませんから、ただ丁寧にお辞儀して手を合わせました。そして、本当のお顔の代わりに写真を拝見しようと祭壇を背に立ち上がった時、背中に温かいものがかぶさりました。わずかな重みを背中全体に広がってゆくのを感じました。そのとたんに、湿っぽい空虚さと哀しさが背中の表面からじんわりと染み込みはじめ、私は心を支配されそうになりました。すると私の自覚が、ちがう、ちがうこれは私の感情じゃない、と強く否定するのです。そして激しい恐怖とパニック、それから悲しさが私の本体を揺さぶりました。気がつくと私は悲鳴をあげ目を醒ましていました。隣に寝ていた崇くんは大きく目を見開いてこちらを見ています。

「どうしたの」

私は夢の説明をしました。たった今みたばかりですから、ふすまの柄や座布団の色なんかもはっきり覚えています。その状景に加えて、背中の温かみがどんな風だったか、そして伝わってきた悲しさはどんな風だったか、見えないものについてもとても詳しく説明しました。だって、それがとても大事に思えたんですもの。

崇くんは天井を向いたまま、半分瞼を閉じて話を聞いていました。祭壇の前で背中に重みを感じたところに話がさしかかったとき、底抜けの不安を感じて私は崇くんの腕にすがりました。布団の中の足が彼のスネにぶつかると、つめたいねと言いました。まるで目眩の最中のように上下左右の感覚を失い、ただ中空に浮かんでいるみたいでした。とても不安でした。その不安はつまり、いつも体を持たない空気のような存在になりたいと思っていたのに、やはり重力の影響を受けてきちんと地面に足がついていることを自分には必要だという教えていました。

そして誰かの感情が私の中に入ってきたことを説明した時、またあの湿った哀しさが私の中に蘇りました。思わず顔をしかめ、言葉を探していると、崇くんの温かい手が私の背中に入ってきました。その手はただ丁寧に私の狭い背中を何度も往復しました。湿り気のある温度は夢の中でおぶさった温度に似ていました。どんな言葉も私の不安の解決にはならないほど私は疲れていました。崇くんは何も言わず、ただ、しぃーと唇をよせ私の頭をだきしめ体を合わせたまま背中を撫でてくれました。

そんなことがあってから二日後、私たちは東の崇くんの実家にいました。私たちの翁撫の部屋には電話を引いていません。ですから、大切な連絡は崇くんにきました。
実は崇くんのお母さんが亡くなりました。私にとっては初めての町、そして崇くんのお家でした。白い洋館は何ブロックもはなれた国道をはいったところからも見えました。傾斜地のせいで、広い庭もぐるりと取り巻く生垣のむこうに広がっているのが見えました。沢山の人が弔問のために坂の道にならんでいました。その列に加わることなく、崇くんは私の手を引いて、石の門の奥へと連れてゆきました。そして洋風の玄関のひさしの脇の、月桂樹の木立の間につくられた木戸を開けて、庭へと入ってゆきます。そこからは、あっというくらい明るくて、ひかりがみちている庭がありました。屋敷の庭に出たのです。そして、何も言わず、全開にしたガラスの縁側から入りました。縁側の石の上に、崇くんがピカピカの黒革靴を脱ぎ揃えていると、パタパタと誰かの足音がしました。

「まぁ、ぼっちゃん」

白いエプロンをした初老の女性でした。

「こんなところから・・・。」

いいんだよ、と崇くんはいい、お母さんはどこ? と尋ねました。

「仏間にいらっしゃいます」

女の人は、目を伏せて語尾を飲み込むように言いました。崇くんは私の手をとると、胸を張ってさっそうと奥へ連れてゆきました。お庭から入ったお屋敷は、普段のおうちのままでしたが、一つドアを開けると、そこは部屋全体に白幕がめぐらされていて、どこか別の世界のようにみえました。廊下でつながったいくつもの部屋には沢山の人がいました。みなさん、上着を着たまま正座をしてお茶を飲んでいます。そしてそのあいだを手慣れた様子で女性たちがお茶をだしていました。その空気感はまさに夢で見たのとおなじでした。この人で一杯の空間のどこかに、あの夢でみたような場所があるのだろうと思いました。でも崇くんが、ぎゅっと握っていた私の手を放したところには、とても大きな祭壇がありました。人のお家でここまで大きな祭壇を組んでいるのを見たことがありません。それに、飾られているお花の豪華なこと。白、という共通点を除けば、それはまるでボッティチェリの絵のように多種類の花が、甘い良い香りを部屋に満たしていました。

「おまえ、やっときたな」

誰かの怒った声で顔を上げると、そこには崇くんによく似た太った人がいました。怒っているけれど、その目は赤くてとてもつらそうです。

ごめん、崇くんがはっきりと、でも喉の奥から絞り出すような声で言いました。
祭壇の左右には親族の席が用意されていました。すでに前席はいっぱいでしたが、崇くんの顔を見ると真ん中の二人が席を譲ってくれました。そこに私を座らせ、崇くんも体を縮こませて白い座布団の上に座りました。そして左右のご親戚に頭をさげました。私も目を伏せたまま、崇くんの振動にあわせて首を垂れました。

読経のあと、初めてお母様のお顔をみせていただきました。胸の前で組んだ指は痩せていましたが、お顔は美しくて清らかでした。死化粧のおかげか薄くさした頬紅とリップグロスがお顔をとても優しく見せていました。唇はきっと素敵な言葉を発していたのだと思います。握ってあげてと、崇くんが手を覆っていたお花をよけて言うので、私はそっと両手で握りました。しっとり湿った感じがして不思議でした。それからお盆に用意されたカサブランカを襟元におきました。周りの人たちが私の一挙手一投足を見ていました。
そのとき、ふぁーんと鼓膜が丘に上がったフグみたいに外側に膨張して、なにも聞こえなくなりました。おかげで、崇くんが私の腕をひっぱるまで、私は透明なカプセルの中の別の世界にいるような無感覚になりました。

お葬式って、どうしていつも同じなのでしょう。段取りもお経も、あまりかわりばえしなくて。亡くなった方がどんな人なのか知るよしもありません。そんなことを崇くんの耳元にささやくと、彼は、家族の人たちの胸にある記憶だけで十分だよ、といいました。

私は崇くんのお母様のことを何も知らないのに。あとでちゃんとはなしてあげますよ、僕の知っている素敵な母のことをね、と耳元で言いました。

お母様は、長いこと自宅療養されていたそうです。崇くんのお兄さんとご家族がほがらかで、お母様の静かに過ごされていた様子が伝わります。

「おばあちゃまねリップグロスつけたいっておっしゃっていたの。だから、私のお気に入りのを貸してあげるわ」

セーラー服姿の女の子が言いました。その子の目も腫れていますが、おちょぼ口は薄桃色に光っていました。骨格のしっかりした感じは、崇くんによく似ています。

「この方が?」

大学時代のお友達が大勢来た時に翁撫のアパートの前で撮った写真を見せると、お兄さんが訊きました。

うん、嫁です

と崇くんが言いました。私はびっくりしました。私たちは、もう五年一緒に暮らしていますが、まだ結婚について真剣に話したことがなかったからです。やきもちやいたり、不安になって別の人と一緒になると言ったこともあるけれど、私には聞こえない音がきこえてしまう耳より崇くんが必要です。彼はときどき面倒くさいと思っているかもしれません。でもお互い様です。だから、結婚のことはわざとふれないようにしてきました。どんな人生の区切りかたがあるとしても、今の私と崇くんにとって、お互いが必要だということは間違いないことですもの。そう思っていたから私は面食らいました。多分、目玉がぐるりと一回転していたと思います。

「どこで知り合ったのだっけ?」

崇くんのお兄さんが聞きました。

水族館でね、と崇くんがいいました。

「そうか、お前らしいな」

お兄さんは言いました。
ついに港を見つけたか、と下を向いていいました。

崇くんが、お母さんが来たみたいなんだ、と言いました。そんな唐突に夢の話を持ち出してはお兄さんも困るでしょと思っているとお兄さんは、

「そうかもしれないな。最期に会いに行ったんだな」
とすんなり言葉を受け取ってくれました。そういう家族なのですね。

水族館の町に戻った崇くんは、お母さんのお葬式に急遽出席するために、仕事を代わってくれた職員さんやパートさんたちのところへ挨拶に行きました。

「こういうことは続く時には続くものだね・・・、つらいわねぇ」

坂口さんが見ていられないと言うふうに半分目を伏せて言いました。

「それでも出すの?」

坂口さんはクリアファイルから小豆色の文字の婚姻届の用紙をだしました。

「ええ、気持ちの問題なので、受理されなくても仕方ありません。それにきっといまもこの辺りにいると思うんですよね」

と言いながら、私の隣でプカリプカリと浮かんでいるリュウグウノツカイに目をやりました。

目をこらすと用紙は全部記入されていて印鑑までおしてあるのがわかります。
私のところと、崇くんのところの筆跡がおんなじに見えるのが気になります。それに坂口さんのお名前のある、保証人欄の隣にあるのは今年のバレンタインに崇くんに手作りチョコレートをくれた女の子の名前じゃないですか。
やめてよ、と言いたかったけど、ぐっとこらえました。みんなにお祝いしてもらえることを喜ばなくちゃね。ぐっと奥歯を噛みましたが、抜いた親知らずはしらんぷり。

「生きているうちに手続きしてやればよかった」

崇くんは泣いているのでしょうか、涙声です。パートさんたちが、ポンポンっと彼の肩を優しくたたきます。彼はカチャカチャ鳴る小さなガラス瓶をポケットから取り出しました。水族館のおみやげ屋さんにあるちいさなコルクの栓をしめた瓶です。なかにはすべらかな乳白色の丸い骨がありました。小さな穴が三つ空いています。

私はようやく自分の体がどこか軽いこと、近頃聞こえない音に悩まされないこと、しょっちゅう眠くなることを思い出しました。私は死なない心をもらったのでした。

ごめんね、次の次につづく緑の目をした女の子を産んであげられなくて。ずっとそばにいてあげられなくて。

でも憶えていますか? 体を失った魂は寂しがり屋なのです。そして今の私に空気は、海水のように包み隠さず崇くんの気持ちを、心を、伝えてくれるのです。自由な私は空気の中をたゆたうながら、あなたを感じて生きてゆきますよ、あなたをとりまく空気の成分になって。ね、崇くん。
そしてお彼岸になったら、洞窟にぜひ来てください。年に二回、あなたの耳元で優しい寝息を聞かせてあげます。
大好きです、崇くん。

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