見出し画像

銀座東洋物語。3(あのころの海外駐在)

 そもそも2年半の契約だったのに、10倍以上の競争率で合格しそのころまだ西ドイツだったフランクフルトのその店に仕事を始めたら、どうしたことか虚無感にとらわれてしまった。
 最初の数ヶ月は慣れることに一生懸命になって何も感じなかったが、だんだんと仕事になれました。しかしこれは天性というか、決定的に数字に弱いという特性を発現させたのもこの時期。生来の商売人の才能は発揮して一日の担当部門売上100万円の記録をつくったものの、当たり前のレジ当番では先輩・同期・後輩の三世代を午後九時過ぎまで残業させる大失態を繰り返し、最後には当番は回ってこなくなった。これを羨ましいとか贔屓だとか、上司に文句を言うスタッフがいたかどうか。聞いたことはないから、残業になるよりも、レジには近づいてもらわない方が店にとっても、自分達にとっても助かると判断されたのでしょう。
 今のなんでも『平等』で『だれでも権利を主張』する時代にはには考えられないことかもしれないが、あのころは御身大事、自分の周りの平和を乱ささず、平安を保つために『できる人間が、うまく帳尻をあわせる』思いやりがあったのは事実だ。だって、私、こうして文章に書くまで、そのことに気づかなかったのがよい証拠だ。そう考えると、年齢とか立場とか関係なく、できる人ができない人のケアをさりげなくする、みんなが誰かの姉で、誰かの妹という意識だった気がする。

 これほどの数字ダメ人間だったのに、私は自分に失望することもなく苦手発見程度の認識にとどめ、その反面商売人のセンスでは店に貢献できるということを発見した。そして、このことだけに半年をつかった。すると今度は何を目標にしたらいいかわからなくなってしまった。

 周囲は大学でドイツ文学や英米文学を学び、話す機会はすくなくても文章は読めるし日本で就職したら外資系の秘書になれるレベルの人たちが、免税店の一社員として渡独していた。つまり彼女たちにはこちらの文化に目見える準備も展望もある人たちだったのだ。この店はドイツ法人の資格を取得していたため私たちは直接採用だったが、経理・経営は日本の大型小売店の精鋭が駐在員としてやってきている。経理の男性は帰国してから本店の経理の席を約束されているから忙しくなる前の遊学的な駐在期間だったのだとおもう。実際、その方のお父上は某銀行のかなり偉い方で、政府関係者の視察に参加して渡独された際には店長と一席設けられたと聞いた。

 四十年も前、今年還暦になった私が二十歳だった時ことだ。でも今の二十歳代の若者たちが想像するほど昔でもないし、全時代的でもなく、海外旅行や海外視察が生活の中にある人たちは昔から一定数いた。そういう人たちが仕事に関連した旅行で海外へゆき、日本においてきた奥さんや娘にブランドの品を土産に買ってゆく。そんな現地でも高価で手の届かない品物が日本でステータスになるきっかけじゃなかったのかと考えたりする。
 免税店の後輩で4大を卒業して入社したHさんは当時すでにロエベのバッグを持っていた。その彼女はいち早くグッチのフランチャイズ店専任になった。これだけ聞いたら、Hさんを『銀座東洋物語。2』でお話したやり手のフライトアテンダントのような感じの女性と思われるかもしれない。しかし実際のHさん、ゆったりした細面のお母さんタイプの女性で、ロエベのバッグも当時のラインはソフトでたっぷりしたトランクが主流で、どちらかというと40代以降の女性が使うようなバッグだった。仕事では入店は私より一年あとだから後輩だけど、彼女からは育ちの良さと格を感じた。そしてHさんのお父上も、駐在の経理主任のお父上の時同様、出張視察のついでに店に立ち寄られた。娘の働いているところを見に来たのだけれど、同行した随行員の数と、支店長のもみ手には驚かされた。もの慣れた静かな感じの紳士で、奥様のお土産に娘が選んだグッチのバンブーバッグを買った。
 Hさんのロエベは、もしかしたら、同じようにしてお父上がお母様に買われたお土産を譲られたのかも知れなかった。

 もう一つ。あの百貨店が輝いていた。今はインターネットで注文・配送されてくるので店舗まで足を運ぶ必要はなくて、百貨店みたいなものは生き残りをかけて合併・統合されているけれど、40年まえ百貨店、つまりデパートは輝くお城に見えた。日本の百貨店は、どちらかというとイギリスのリバティやハロッズ的な系統を追っているように見える。それぞれ独自のテイストの商品を集め、品物ばかりじゃなく、生活スタイルや考え方、価値観を提供する場所だった。商品には同じに見えて、材質やら製造段階での手のかかり具合に違いがあり、価格もそれによって変わってくる。まだ大量消費がそれほど当たり前ではなかった時代だった。包丁は母から譲られたものを自分で研いで小さくなるまで使っていたし、まな板なんかも表面に鉋を当ててくれる職人が来てくれるから、母娘でずっと使い続けたものがあった。いわば変わらない地味な生活があったのである。
 そこから50センチへ浮遊した世界を百貨店は見せてくれた。商売は何よりも強く、みんなが好きなものだったから、私たちが経済発展にヒイコラ言っている間も、ちゃんちゃんと経済を嗜好性でささえるエネルギーにガソリンを注いでいたように思う。そうだ、あの頃は物理的欲求、物理的豊かさが幸せの象徴だったのだ。 
 その時代の百貨店マンから聞いた話があった。前述したとおり、特定の人たちが商用で海外に旅行にきていたあの頃、ブランド品が急激に人気を獲得した。特定といってもお金を出しさえすればだれでも海外に行けた時代が始まり、それまでブランド品などはあるのは知っていてもわずかなセレブの間だけのものだったのが、広がり始めたのだ。
 そもそもブランドとして歴史や特定の分野に強い顧客をもっていたブランドはあるものの、やはりプライドがあってなかなかファーイーストの日本の会社とライセンス契約などしてくれない。そこで片田舎の小さなブランドに話を持ちかけ、デザインも材料の調達もすべてこちらでやるから商標だけかしてくれ。使用料を払うという契約をした、という話を日本から買い付けで来ていた本社バイヤーから聞いたことがあった。その時は、そんな馬鹿な話が、と思ったがそのブランドはライトブラインの型押しのレザーのポーチがものすごく売れた。最近になって、レディ・ガガが出演した『ハウス・オブ・グッチ』では似たような話があったし、日本人のバイヤーも出てきた。あれほど有名なブランドですらそういった時代を経てきたのだから、『
r』のマークのそのブランドこそが当時40代でノリに乗っていた百貨店マンの自慢話のそれであっても、そかもしれないと思えた。

 一店員として就職した日系の免税店だったが、あのころの店には日本を代表しているという自負があったような気がする。そのせいで、海外生活を楽しもうとか、あちらで素敵な彼氏を見つけて一生こっちに住もうとか、柔軟な可能性を信じて交際範囲をひろめよう・・・などとは一切考えなかった。    

 それが一番の原因だろう。
 私は、契約期間半ばで、フランクフルトの日系免税店をやめて帰国した。あの頃私に取り憑いた虚無感は、どんなことをしてもとれることはなかった。猛烈になにかに取り組めば、虚無感など感じなくなると思った。それで取り組んだのが、これまで話した英字新聞で仕事を探すことだった。
 フラッグキャリアの航空会社への応募については2でお話ししたが、そのあわよくばの経験がサービスへの興味に変わった。そしてJapan Timesの広告を探しかたも変わりサービス業へ目が向くようになったのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?