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猫とニベアとだいじょうぶ

  冬になるとニベアのCMがながれる。近年ので気になったのは、母から自分へ、そして自分の娘へとうけつがれる「だいじょうぶ」の言葉のバージョン。ご覧になった方も多いとおもう。幼稚園バスを待つ街頭の母と娘。不安げな娘に「大丈夫」と呪文みたいに唱え頬に白いクリームを塗ってやる。そこへ過去が蘇る。母が自分と同じ年頃の頃、今の娘と同じ年頃の娘だった自分に「大丈夫」と低くつぶやきながらクルクルとクリームを塗ってくれた記憶。

  真実しか信じなかった。嘘はいらなかった。気休めも要らなかった。わからない未来への道筋は自分がつけるから、どうなればそうなるか事実だけを教えてくれればよかった。

  長く生きているということは、病にたおれることなく、特段致命的なトラブルに巻き込まれることもなく、順当に生きてきたということだが、ある瞬間からそれまで生きるために使ってきた判断基準や考え方が必要でなくなる時期に遭遇する。それらはそうと気付かぬうちに親や育った環境から受け取ったものなのだが、客観的に見た時それがひどく不完全なことに気づく。

「大丈夫」は一番アンビギュアスなことばで、私は質問形でしか使ったことがない。具体的な状態は理解できないが、安全でなにか問題が発生する状況にないことを保障できるのかどうか、やや手ぐすねを緩めた形で聞いているのだ。それに対して今の相方は、根拠がないくせに大丈夫という言葉をよく吐いた。「だいじょうぶ、だいじょうぶ」そういって背中を撫でてくれたこともある。

  いまだに相方の「だいじょうぶ」には不安定要素が多く信用できない、困った代物だという印象だけれど助けられたことは事実だ。しかし、なぜ自分は大丈夫と聞くと「本当にそうか?」と不安になるのに、相方はお守りのように使うのか。この違いはなんだ?と思った。そしてそれはそれぞれの「だいじょうぶ」と「大丈夫」がインプットされた子供時代の環境と言葉の持つ意味の違いからだった。

  ニベアのCMが流れ出した頃は、すでに息子たちはすでにずいぶんの大人になっていた。想定の延長線上に欲しい結果はあるけれど、そこは飽くまで想定であって、直線の実線で繋がれた未来じゃなく不安定要素とその時の運に左右される点線の未来に、軽くパニックにも似た動揺する息子たちを見ていると、不必要に動揺していた同じ頃の自分が重なる。連れ合いの、無根拠のアクセサリばかりを身につけたDNAがだいぶ、私のパステル色の神経を縁取りしてくれてはいるけれど心配は尽きない。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」

  つれあいはイラつく私にそういう。
息子たちが大丈夫かどうか、ではなく私に言っているようだ。
それはもう「だいじょうぶ」だ。

   CMの、だいじょうぶのおまじないは、安全安心を保障しているわけではない。むしろ、大丈夫でありますように、の祈りなんだと、わかった瞬間だった。
「大丈夫でありますように、だれも約束してくれないけれど、大丈夫と信じて縮こまらないで、ちゃんと前を向いてしっかりしないと、大丈夫じゃなくなっちゃうから、こわがらないで目を開けよう」

  そうやって、CMみたいに育てられた子供は、きっとちゃんと乗り越えて行けるんだろう。息子たちにすまないと思う。大丈夫?と聞かれて、大丈夫かどうかわからない、と答えるが正直だと思っていたから大変だ。わからないことばかりに囲まれて子供はただでさえ不安だ。気楽にみえて事実気楽な子供などいない。

「女の子と書いて好ましいって読むくらい、女の子っていいもんよね」と訳のわからないことを言っていた母は、よくちちんぷいぷいはしてくれた。しかし嘘は言わない人だった。彼女の時代はきっと本当のことが何よりも大事だったのだろう。息子たちのおばあちゃんで、私の母で、その女性は90年ほど前にうまれた。戦争を経験し、価値観がひっくり返り、いつも『本当のこと』を岬の灯台のように目印にしていた。90年、戦争のなかった時代はそれまであるだろうか。経済が落ち込めばどこかで活力剤のように戦争がはじまった。内紛も起きる。生きる小さな努力に労力を払うのはつまらないが、大きな大義名分ならばシャキーンと起き上がれると言うのか。

  明治維新が武士同士の勢力争いを止めるために引っ張り出された策だとしたら、連綿脈々と続いてきた国のあり方の形態ではない。そうやっていつも大きな力ができるとそれをひっくり返す反対の力がとって代わって、というのをくりかえしてきた。結局はそのとき日本って国が生きやす形態に、時代によって変わってきたんだと思う。

『野良猫が一匹もいないなんて、世界でこの街だけですよ。』ととある街のNPOの人間が自慢げに語る。
かたや、ロシアからトルコへ旅行できた夫妻は、痩せた子猫に猫缶をあたえる。ロシアの猫はどこでも太っているそうだ。そこは懐の大きさの証明なのだろう。
我が家の前の道路は、猫たちのリビングルームみたいなものだが、餌をやるとなると、悶着がおきそうだ。
しかし、冷静に見て、猫にエサをやって叱られる国は日本ぐらいだ。かわいそうじゃないかという派と、不潔だ、増えたらどうするんだと言う派と真っ向ぶつかれば相当ひどい喧嘩になるだろう。ご近所を大事にするならば、猫といえども首輪をつけて散歩させる時代だ。

  せちがらい。そうさせているのは、いつも対立するふたつがあるからだ。
きっと時代のせいだろう。それまでの価値観にたよらず、素のまっさらな目で見た時の判断ができれば、醜く争うこともないのに。積極的にどちらに拘ることもなく、あたらしい世代が抜群の解決策を出してくれるだろうことを祈る時、私はこう呟く。

  だいじょうぶ、だいじょうぶ。

  それは見て見ないふりなのかもしれない。
  でもそれで一応、私は平和だ。

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